概要
徐州下邳国淮浦県の出身。
徐州を代表する名家の生まれ。父に陳珪、兄弟に陳応がいる。
誠実であり思慮深く、文学的才能にも秀でていたとされており、劉備から「文武と胆志を兼ね備えており、彼に匹敵する者を見つけることは難しい」と高く評価されていた。
徐州刺史の陶謙に仕えていたが、陶謙の死後は曹操の徐州侵攻で救援に来ていた劉備に徐州刺史になるように説得していた。だが、徐州が呂布によって奪取されると呂布に仕えた。しかし、陳登は父と同じく呂布を嫌い、呂布を始末するべく暗躍していた。
呂布の死後、広陵太守だった陳登は江南を併合する野望を抱くようになり、江南を巡って呂布健在の頃から敵対していた孫策と争い、攻めて来た孫策軍を幾度も撃退した。
39歳で亡くなったとされるが、死因ついては、魚の膾を食したことで寄生虫が湧いてしまったとされている。最初に発病した時は華佗の投薬によって一度は治癒したが、3年後に病気が再発したが、その時既に華佗が不在であったため、陳登は病死してしまったという。
三国志演義
演義でも登場し、正史よりも親劉備の人物として描かれる。
劉備を徐州刺史になるように説得してから呂布の滅亡まではおおよそ正史通りだが、劉備が袁術を討伐した後、劉備は曹操から預けられた軍を随行していた曹操配下の朱霊・路昭(正史では路招)だけを帰還させて軍をそのまま手元に置いたことで、曹操は激怒して徐州の代理で治めていた車胄に劉備暗殺を命じ、車胄はそのことを陳登に相談して策を巡らせた。だが、陳登は劉備の義弟の関羽と張飛に密告し、逆に罠に嵌めて車胄を抹殺した。
劉備が曹操によって徐州を追われた後、陳登は陳珪とともに降伏し、処罰を甘んじて受けようとしたが、曹操は二人を許して徐州の民の説得を頼まれる。その後は、華佗の患者の一人として名だけが登場する。