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バヤズィト1世

ばやじっといっせい

バヤズィト1世とは、オスマン帝国の第四代皇帝である。その快進撃と悲劇的な最期で歴史に名を残した。
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オスマン帝国第四代皇帝バヤジットとも。

政治と軍事の両面で才能を発揮し、帝国の版図拡大に貢献した。

通称「雷帝(Yıldırım)」。


雷帝編集

若い頃から父や兄が暗殺されるのを見てきたためか、非常に苛烈な性格だった。父の死によって即位するや否や弟たちを皆殺しにして権力争いの根を断ち、その軍才を十二分に発揮し始める。

手始めに「新帝は若造で与し易い」と侮って離反した豪族たちを全滅。アナトリアの支配権を腕力で固める。そのまま接収した豪族たちの騎兵を率いてバルカン半島を荒らしまくり、帝国の版図を大いに広げた。特にキリスト教国に対しては無敵で、その強さと迅さのために国内外から「雷帝」と恐れられた。


敗北編集

そんな無敵の雷帝であったが、もっと強い…というか世界最強ティムール軍団を自ら迎え撃ったのが運の尽き。元々バヤズィトを嫌っていた豪族たちは苦戦と見ると逃げ去り、自慢のイェニチェリ軍団も度重なる遠征のために疲弊しきっていた。バヤズィトは奮戦虚しく、皇帝でありながら捕虜になってしまう。

そのまま国に還ることなく崩御。折しも身代金交渉の真っ最中であり、病死とも自殺とも、はたまた皇太子による謀殺とも言われる。


人気漫画化編集

この「にっくきオスマン皇帝がムスリム同士の覇権争いで死亡」という事件は欧州人にとって痛快だったらしく、バヤズィトがティムールに拷問されている滑稽画が数百年に渡り描かれ続けた。あまりに多く描かれたので、本当にバヤズィトが虐待されたと信じている者が少なくないが、ティムール側の記録ではあくまで貴人として丁重な扱いを受けている。


ただし負けん気の強いバヤズィトは脱走未遂を起こしたため、最終的には風俗画ほど酷くないものの足枷をつけられた。病死説ではこれが原因で痛風が悪化したとされている。


余談編集

  • オスマン帝国の公式な肖像画では再現されていないが、隻眼であったという。
  • 敬虔なムスリムでありながら大の酒豪であった。后にしたキリスト教徒の姫君からワインの旨さを教わったためという。もっとも、ライバルのティムールを始め、飲酒するムスリムは当時から珍しくなかった。
  • 生前から自分の墓として立派なモスクを造っていたが、息子からは「国難の最中で忙しい」として顧みられず、簡素に埋葬された。後に改葬された霊廟も度重なる盗掘や地震で壊れるなど、死後も不運が続いた。現在はモスクも霊廟も旧跡として綺麗に整備されている。

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