概要
久邇宮邦彦王の第一王子で香淳皇后の兄、上皇明仁の叔父、海軍の階級は中将。
プロフィール
続柄 | 久邇宮邦彦王の第一王子 |
---|---|
身位 | 王→皇籍離脱 |
敬称 | 殿下→皇籍離脱 |
生誕 | 1901年2月2日 |
死去 | 1959年12月7日 |
配偶者 | 知子女王 |
子女 | 正子女王、朝子女王、邦昭王、通子女王、英子女王、朝建王、典子女王、朝宏王 |
父親 | 久邇宮邦彦王 |
母親 | 邦彦王妃俔子 |
経歴
大正10年(1921年)海軍兵学校を卒業しその後伏見宮博恭王の王女知子女王と結婚。昭和4年(1929年)に父の邦彦王薨去後久邇宮を相続。昭和7年(1932年)に海軍少佐。昭和12年(1937年)に中佐、昭和14年(1939年)に海軍大佐、昭和15年(1940年)に横須賀鎮守府附、昭和17年(1942年)に海軍少将、昭和20年(1945年)に海軍中将。昭和22年(1947年)に皇籍離脱し、久邇朝融と名乗る。昭和34年(1959年)薨去。
元老西園寺公望に直接「不良皇族」と名指しされるほどで素行の評判はよろしくなく、かつて姫路藩主酒井伯爵家出身の酒井菊子に一目惚れし婚約するも、乗り気では無くなったらしく破棄しようとした事件(婚約破棄事件)が存在する。
この事件の直前には妹・良子女王(後の香淳皇后)と皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)との婚姻に関して、元老山縣有朋と激しく議論しながらも何とか婚姻に漕ぎつけた経緯(宮中某重大事件、しかもこの原因は朝融王の兵役検査の際色弱遺伝子が見つかったことによるもの)があり、よりにもよって同じ宮家から真逆の事象(前は婚約のために強引な手段を使ったのに、今度は強引に婚約を止めさせようとする)で嘆願が出たことで流石に問題となる。
結局菊子との婚約解消は成立したが、このことは血縁上の義弟にあたる昭和天皇をも怒らせ、父邦彦王は天皇の訓戒を受けている。
伏見宮本家の博恭王はこのことを受け、娘を敢えて朝融王の元に嫁がせることで皇室内の空気の引き締めを図ったとされる。ところが、時期は不明だが王はそんな舅の気持ちを裏切るかのごとく家付きの侍女を妊娠させてしまった。この庶子はさる農家に秘密離に養子に出され、農家は当時の内閣総理大臣の給与を越える額の一時金を下賜されたとされる。
庶子の件は博恭王に秘密にして欲しいと事務官に嘆願するほどであった。そんな朝融王に対し知子女王は「私は犠牲になることを覚悟していた」旨の発言を行っている。
また1947年5月下旬時事新報が「皇后の単独会見」と称する記事を報じ、朝融王もこのデマに関与していたとされる。
さらには同年5月に知子女王が薨去されると、なんと菊子とのヨリを戻したいと考えるようになる(菊子は加賀前田家16代当主の前田利為侯爵に嫁いでいたが、夫は戦死しやはり寡婦であった)。しかし菊子はそんな朝融を一蹴したという。
その後も女性関係は極めて派手で三女の通子から「いろんな女性に、一ダースではきかないほどご落胤を生ませている」と言われたり、離脱後にも昭和天皇から「禁治産にでもしなければいかぬか」と苦言を呈され「久邇さんは婦人がおすき」と述べられたりと、その素行の悪さは枚挙に暇がない。
また、戦後には様々な事業に手を出しては失敗し、本邸のみならず別邸も借金のために失い、その後子を抱えて転がり込んだ母・俔子の隠居家すら他人の手に渡っている。
生活に困窮した朝融は、妹の一人で東本願寺大谷家に嫁いでいた大谷智子に頼み込み、当時米国留学中だった甥・大谷光紹の住まいである成護院別邸に入ろうとしたが、門徒代表の反対に遇い断念している。
薨去により、久邇家の家督・祭祀は第一王子であった邦昭が継承した。最後の住まいであった俔子邸を買い取った飯野海運に入社し、後々曾祖父以来となる伊勢神宮の神職となり、大宮司を務めている。
系譜
父:久邇宮邦彦王
第一王子:邦昭王
第三王女:通子女王 - 酒井省吾夫人
第四王女:英子女王 - 木下雄三夫人
第二王子:朝建王
第五王女:典子女王 - 古河潤之助夫人
第三王子:朝宏王