球団史については近鉄バファローズの項目も参照。
ここでは主に1999年から2004年までの球団史について記載する。
略史
地域密着を目指し、1999年より大阪近鉄バファローズに改名した。この年は先発投手陣が安定せず最下位に終わり、佐々木恭介監督は辞任する。
新たにOBの梨田昌孝を監督に迎えた2000年は、主力選手の相次ぐ故障に泣かされてまたも最下位に終わった。この年は中村紀洋が本塁打王と打点王の2冠に輝いた。
2001年。いてまえ打線が大爆発した。「投手陣が打ち込まれてもそれ以上に打ちまくる」という豪快なスタイルで首位をキープする。そしてマジック1で迎えた9月26日のオリックス戦。9回裏までに3点差をつけられていたが、無死満塁のチャンスをつかみ、代打北川博敏が優勝を決める逆転サヨナラ満塁ホームランを放った。
1989年以来、12年ぶり4回目の優勝で、これが結果として最後の優勝になった。この年はタフィ・ローズが55本塁打を放ったが、チーム防御率が4.98という両極端な成績だった。
日本シリーズではヤクルトスワローズと対戦するが、自慢の打線を封じられ1勝4敗で敗れた。
2002年は西武に大差をつけられての2位に終わり、2003年は3位。
2004年、球団の赤字経営補填のため1月にネーミングライツ導入を計画しようとするが、他球団の反対で断念。6月13日、ついに水面下で近鉄球団がオリックス・ブルーウェーブとの球団合併交渉を行っていることを日経新聞がスクープ、両球団がこれを認めたため、世間を巻き込んだ球界再編騒動に発展。ライブドアが近鉄球団の買収に名乗りを上げたが近鉄球団はこれに応じず、あくまでオリックスとの合併に向けて協議を継続し、8月10日に合併合意書の調印が行われ、9月8日のオーナー会議で合併が正式に承認された。しかし、選手会やファンを中心に合併反対の動きは根強く、9月18日・19日にはNPB史上初のストライキが決行された。
だが選手会側・経営者側両者の交渉の結果「オリックスと近鉄はオリックスを存続球団として合併したうえで、1チームの新規参入により2リーグ12球団制を維持」することで決着。球団合併を止めることはできず、最後のシーズンも5位に終わったため、一度も日本一になれないまま近鉄球団は55年間の歴史に幕を下ろした。
オフに合併球団としてオリックス・バファローズが発足、また新規参入球団として東北楽天ゴールデンイーグルスが新たにNPBに加わり、旧・近鉄所属選手は「選手分配ドラフト」によってオリックスと楽天にそれぞれ移籍した。