曖昧回避
3.特攻航空部隊の名称。
4.大正期日本の駆逐艦とその艦型。初代とその系譜を継いだ二代目がある。
6.神風怪盗ジャンヌ。
概説
神話
神が吹く、または神界から吹き寄せるとされる特別な風とされ、日本書紀に「神風(かむかぜ)の伊勢(今の三重)の国は常世の波の敷浪の帰する国なり。この国に居らむと思ふ」という和歌がある。
ギリシャ神話に、神が起こした風がいくつも書かれ、和訳では「神風」と表現された。
駆逐艦「神風」
初代神風型
1904年(明治38年)に日露戦争を予測して建造を開始した駆逐艦、及びその同艦型群。
全長69.2m、全幅6.6m、喫水(船が水面下に沈む深さ)1.8m、排水量381~450t。
日本初の本格駆逐艦である春雨型駆逐艦の後継に当たり、口径の違う8cm単装砲を計6門と45cm魚雷発射管を装備していた。
とくかく同艦型を量産する計画だったため、最終的には32隻という日本海軍史上でも最大規模となった。
しかし本途である日露戦争には間に合わず、終戦後にようやく就役が完了した。
8年後の1912年(大正元年)に三等駆逐艦や掃海艦として払い下げられ、二代目にその後を譲った。
二代目神風型
長門型戦艦の建造で知られる「八八艦隊計画」の一環として建造された大型艦艇。
全長102.57m、全幅9.16m、喫水2.92m、排水量1400t、12cm単装砲・53cm三連装魚雷発射管・三年式機砲(6.5mm機銃、後期型は7.7mm機銃)・爆雷18個、を搭載した。
第二次世界大戦期には、「第一駆逐隊」「第五駆逐隊」「第二九駆逐隊」「第二八駆逐隊」を編成し、既に旧型ながら睦月型や峯風型とともに奮戦した。
神風、朝風、春風、松風、旗風、追風、疾風、朝凪、夕凪の合計九隻からなる。
最終的に神風以外の全てが沈没し、神風だけが終戦を迎えた。
神風(二代目)
二代目神風型の一番艦であり、第二次世界大戦期には「第一駆逐隊」に編入されていた。
駆逐艦の中でも、熾烈な戦いを二度も経験しながら終戦まで生き残った武勇の艦艇である。
戦時最終期には12cm単装砲×3門、53cm連装魚雷発射管×2門、25mm連装機銃×4期(同型単装機銃も2挺装備)、爆雷18個+爆雷投射常軌×2基と、対空・対潜に傾倒した装備になっている。
また下記の対潜水艦エピソードにあるように、40mm連装機銃を搭載した記録もある。
竣工早々に大湊警備府に配属され、北洋警備に従事し、開戦時も千島列島周辺海域の紹介に当たっていた。
ミッドウェー作戦のアリューシャン方面攻略に参加し、第二次アッツ島攻略で護衛船団して従事、それ以降も本土北方海域の船団護衛を主任務としていた。
太平洋戦争末期には北号作戦に支援艦として参加し、台湾で四航戦と合流。そのままシンガポールに向かう。
1945年5月14日、ペナン沖海戦で妙高型重巡洋艦「羽黒」とともにイギリス艦隊と一戦を交えるも、橋本中将の指示で一時戦線を離脱。その後海上を漂流する羽黒の船員の救助に当たった。
戦闘中は修復の不完全な羽黒をかばって煙幕を展開し、輸送任務中で魚雷発射管を外した状態身も関わらず粘り強く奮戦してみせた。
なおこの海戦は「日本海軍最後の海戦」とも言われる歴史的事件でもある。
翌月6月4日には、バンガ海峡での戦闘で沈没した妙高型重巡洋艦「足柄」の船員救助に当たっている。
この海峡戦をもって第五戦隊は解隊となった。
そして神風最大の戦いとして知られるのが、米潜水艦ポークビルとの死闘である。
7月中旬にシンガポールから輸送船団の船団護衛に従事し、潜水艦の出没地点として知られたマレー半島沖で接触。
両者で至近距離での魚雷と爆雷による殴り合いを演じた末、ポークビルが浮上した瞬間を狙って神風が40mm連装機銃を発射し、ポークビルは33m下の海底に沈座した。
神風は撃沈を確信してその場を去ったが、ポークビルは残存していた。しかし、壮絶な戦いからジャイロコンパスを始めとした各種機器が使いものにならなくなり、撤退を余儀なくされたという。
旧型艦ながら、卓越した操舵と勝機を見逃さない辣腕から、神風と艦長を務めた春日均少佐は米軍から絶賛されている。
戦後、春日氏とポークビルのスキャンランド艦長は幾度か手紙を交換しており、スキャンランドは春日を「最も熟練した駆逐艦艦長」と褒めちぎっている。対する春日も「沈めなくて良かった。ホッとした気持ちです」と述懐している。
戦後、10月1日に日本に帰投し、復員船任務に従事。
翌年6月7日に、静岡県の御前崎で海防艦「国後」が擱座したことを受けて救助に出るも、神風も座礁してしまい、そのまま放置されることが決定した。
翌1947年10月31日、解体完了。
数々の船団護衛と二度の死闘を経験した歴戦の勇者は、ここに生涯を閉じた。
元寇
2度モンゴルが襲来してきた元寇が起こり、1274年(文永10年)の「文永の役」と1281年(弘安4年)の「弘安の役」の2度ともモンゴルと高麗(朝鮮)の艦隊を暴風が撃破し、侵攻を食い止めたとされる。
しかし、1度目はモンゴル軍が戦略的に撤退しただけで、実際には暴風は起こっていないという説が有力。2度目は旧暦6月(新暦7月)の台風の到来で、博多湾に停泊していた元軍艦隊を壊滅させた。
その後、日本を危機から守る伝説の風として伝えられてきた。
特攻
第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)末期、米軍(連合国軍)の前に劣勢に立たされた日本軍は、体当たり攻撃による特攻作戦を組んだ。人間爆弾「桜花」や人間魚雷「回天」とともに自爆・玉砕する特別攻撃航空部隊(特攻隊)が編成され、「神風」の名が与えられて神風特攻隊となり、思ったほどの戦果を上げることはできなかったが、世界にその名が知れ渡った。
現代
世界的には身の危険を顧みない攻撃の比喩として広まっている。
思いがけない幸運に恵まれる事を「神風が吹く」という表現が使われ、ある業界では、女子のスカートの中を拝ませてくれる、奇跡の風として言い伝えられている。