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小野田寛郎の編集履歴

2015-11-16 17:37:30 バージョン

小野田寛郎

おのだひろお

小野田寛郎とは、日本の軍人。大日本帝国陸軍の情報将校で、終戦を報されずフィリピンに29年間ものあいだ潜伏。ようやく発見され帰国後は実業家となり、健全な日本人の育成に努めた。渾名は『最後の日本兵』。

経歴

戦前・戦中

大正11年(1922年)に、和歌山県海草郡亀川村(現:海南市)に、県議会議員の父と教師の母の間に四男として生まれる。

中学校時代は剣道選手として活躍し、卒業後は民間の貿易会社『田島洋行』に就職し、中華民国にある漢口支店勤務となり、中国語を習得した。

彼は兄弟の多くが高学歴の陸軍将校となったエリート軍人であった。しかし寛郎本人はこの頃はまだ軍人の道を歩まず、旧制高等学校への進学もしていなかったため、兄弟の中では経歴・学歴面で浮いた存在であったという。

彼が大日本帝国陸軍に入隊したのは、昭和17年(1942年)12月であり、上海の商事会社で働いていた時に、兵士の徴募(募集)に応じて徴兵検査を受け、本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時61本隊は戦地に動員中で、その留守部隊)に二等兵として入営した。

その語学力が見込まれて陸軍中野学校二俣分校に入校し、遊激戦ゲリラ戦)の教育を受けた。


昭和19年(1944年)には、情報将校として大東亜戦争に従軍し、フィリピンルバング島にてゲリラ戦を展開。戦争終結を報されずにその後も現地の軍施設を襲撃したり、警察と交戦したり、警官や民間人を射殺したりと継戦し続け、29年間潜伏し続けていた。終戦後は他に2名の軍人と行動をともにしたが、警察との交戦で次々に命を落とし、昭和47年(1972年)を最後に単独行動となった。

使用した武器は九九式短小銃三八式歩兵銃軍刀など。現地軍から鹵獲した武器も使った。密林では野生のヤシの実を食べてサバイバルを凌いだ。奪ったラジオから国際情勢や高度経済成長期を迎えた日本の情勢などを把握していたが、これを小野田氏は「日本は戦争を続けながら豊かになっている」と解釈したため、戦闘を続行した。生存を知った日本の捜索隊が呼びかけをしたが、敵の作戦と解釈し拒み続けた。


1972年と74年に奔放な冒険家の青年・鈴木紀夫が小野田氏を探しに単身ルバングを訪れ、小野田氏と接触を成功。日本の終戦や現状を聞かされたが、上官命令がなければ投降できないと告げた。そのひと月後に再会した鈴木は小野田氏の元上官である谷口義美元陸軍少佐を連れて現れ、小野田氏は作戦解除・帰国命令を下され、孤独な戦争は終わった。最終階級は「予備陸軍少尉」となっている。


戦後・帰国後

しかし、帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や、フィリピン政府の判断により小野田氏への訴追は行われなかったが、現地軍との銃撃戦によって多数の軍人や住民が死傷した出来事、「本当に敗戦を知らなかったのか」という疑問の高まりから、一部のマスコミから疎まれ、「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」などといったレッテル貼りや、虚偽報道によるバッシングなどが行われた。


また、当時の日本政府は、小野田氏に対して見舞金として100万円を贈呈したが、小野田氏は受け取りを拒否し、それでも見舞金を渡されたため、見舞金と多くの方々から寄せられた義援金は全て靖国神社に寄付し、こちらも非難の的にされ、昭和天皇との会見も、万が一に陛下が自身に謝罪するようなことを避けるために断っていた。小野田氏は、マスコミのヘリがゲリラ戦時の敵軍ヘリと重なって悩まされた時期もあったという。


上述したことが原因となり、戦前から大きく変貌した日本社会に馴染めなかった小野田氏は、帰国後に結婚した妻の町枝婦人と共に、次兄のいるブラジルに移住して牧場を経営し、10年を経て経営に成功する。


その後は、凶悪少年犯罪が多発する、現代日本の社会問題を痛め、「祖国のため健全な日本人を育成したい」という一心から、実業家となってサバイバル塾『小野田自然塾』を主宰し、自身の陸軍時代における密林での生活経験を元に、逞しい日本人を育成するため、野営などを行って子供たちに自然から多くを学ばせる独自の教育を行った。


それと同時に講演会なども積極的に行っており、2009年5月15日には、『小野田寛郎の日本への遺言』と題した講演を2時間に渡って行い、その後も精力的に講演活動を続け、高齢ながら日本ブラジルを往復して活動していた。


活動は晩年まで続け、2014年1月16日に肺炎のため東京都中央区の病院で死去した。享年91歳。

その、戦後日本人の多くが失ってしまった、古き良き日本人の精神性を体現した存在である彼の姿は、多くの現代日本人に日本と日本人のあり方を考えさせられることとなった。


逸話

  • 小野田氏は鈴木と初めて接触した際は銃口を向けたが、鈴木の足が靴下を履いたままのサンダル履きであることに気付き、現地民は裸足か裸足にサンダル履きであるため、世界広しそんな履き方は日本人しか考えられず、鈴木が本当に日本の民間人であると納得して彼の話を聞いたという。
  • 保守系の活動家でもあり、『日本を守る国民会議』や、その後『日本を守る会』と合併して誕生した『日本会議』の代表委員などを歴任し、社団法人『日本緑十字社』の理事にも就任した。
  • 慰安婦問題に関しては、日本の責任を否定し、2007年7月13日にアメリカ大使館に手渡された、アメリカ下院121号決議の全面撤回を求める、チャンネル桜主導の抗議書に夫婦そろって賛同した。
  • 政府見解と異なる懸賞論文を投稿したとして更迭された、航空自衛隊田母神俊雄元航空幕僚長を支持する『田母神論文と自衛官の名誉を考える会』の発起人でもあり、妻と共に名を連ねている。
  • 一方、小野田氏を見つけ出した鈴木は夫婦で喫茶店を営むも、奔放さは変わらずヒマラヤ山脈雪男探しに向かうも遭難し、1987年に遺体が発見された。享年37歳。小野田氏は彼の死を悼み、慰霊のためにヒマラヤを訪れた。

著書

  • 『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局、1995年)
  • 『極限で私を支えたもの』(山田村教育委員会、1997年)
  • 『君たち、どうする?』(新潮社、2004年)
  • 『ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い』(明成社、2007年)
  • 『生きる』(PHP研究所、2013年)

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