設計時
基準排水量:26330t
満載排水量:32100t
全長:214.6m
全幅:28m
武装:45口径35.6cm連装砲塔4基
50口径15.2cm単装砲16基
53cm魚雷水中発射管8本
装甲:水線部203mm
甲板19mm
弾火薬庫甲板70mm
速力:27.5ノット
乗員:1201名
概要
「金剛」の名を持つ軍艦は現在までに3隻建造されている(もっとも3代目は「軍艦ではない!」と言い張っているが……)。本項では巡洋戦艦として建造され、後に戦艦に改装された2代目について解説する。
日本初の超弩級艦で、金剛型戦艦の一番艦。ドレッドノート級を開発した英国の建艦技術を学ぶ為に、英国に発注・建造された。現在、最後の外国産日本主力艦である。
第二次世界大戦では30ノットの快速を有する戦艦であったため、空母機動部隊の護衛艦として最適であったことから、同型艦4隻ともども、最古参の戦艦にもかかわらず、最も活躍した戦艦となった。またその性能から英国の第一次大戦時の巡洋戦艦タイガーの開発にも影響を与えている。
なお、主力戦艦でもあったことから乗員数は同型艦の中でも最も多く、大和や武蔵といった大型戦艦に次ぐ人数が金剛に乗船していた。
また戦記などでは、「高速戦艦」と呼ばれることも多い。
艦名の由来
艦名は、奈良県と大阪府の境にある金剛山にちなんで命名された。
戦艦にも拘らず旧国名ではなく山岳名を持つ理由は、金剛型が当初「装甲巡洋艦」として計画されたため、一等巡洋艦の命名慣例に従ったためである。
その名称は、エルトゥールル号の沈没に遭ったトルコ将兵を母国に送り届けたコルベット「金剛(初代)」を襲名したもので、海上自衛隊のこんごう型ミサイル護衛艦1番艦である「こんごう(3代目)」(イージス艦)に受け継がれている。
この金剛と言う名、冒頭でも紹介したとおり大日本帝国海軍~海上自衛隊で3代にわたって使用されているのだが、3代とも外国製・もしくは海外由来の設計という珍しい存在である。
建造の経緯
1907年英国ヴィッカース社(現在のBAEシステムズ)に金剛の建造を依頼。
当時の日本では金剛型の前級の河内型戦艦を建造中であったが、構想や技術的に欧米に劣る点も多く認められた。そのため英国の進んだ建艦技術を学ぶべく主力艦建造を依頼したものが金剛である。
二度に渡る改装
一次改装、二次改装共に榛名から行なわれている。また金剛や霧島に改装以前から標準装備されていた武装を改装後に榛名にも追加装備としてまわしている(武装面での優先順位が低い)ことからも、榛名をテスト艦としていたと思われる。これ以外にも度々小改装が実施されている。
第一次改装
水平防御を強化した結果、速力が低下してしまった。砲塔部分の防御力強化やバルジの設置などで水中防御の改善も行われた。
この時、類別を巡洋戦艦から戦艦に変更している。
第二次改装
水雷戦隊との作戦が考慮され速力を強化し30ノットへ。仰角を更に引き上げ主砲と副砲の射程延長。
また弾薬庫が改造され九一式徹甲弾が使用可能となっている。
主な活躍
マレー沖海戦
第二次世界大戦の初期。1941年12月にマレー半島東方沖で日本海軍と英国海軍で海戦が行なわれた。当時は大艦巨砲主義が常識であり、作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることは不可能とされていた。このため英国の新戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、及び巡洋戦艦レパルス対策として金剛は投入された。
このため英国指揮官フィリップス提督は金剛を最も警戒し、金剛と遭遇した際には直ちに殲滅するようにと指揮をとった。
しかしこの海戦では戦艦同士の砲撃戦は行なわれず、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは日本海軍航空機によって撃沈され、フィリップス提督も戦死した。
この海戦を契機に大艦巨砲主義は終焉を迎える。米国海軍もこれを取り入れ空母の量産を開始したことから、後に日本海軍の大和や武蔵も航空機によって撃沈されている。
ヘンダーソン飛行場艦砲射撃
1942年10月。日本海軍はソロモン諸島に位置するガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対して夜間砲撃を行なった。
金剛は旗艦として榛名と共に出撃し、一時的にヘンダーソン飛行場を機能停止状態へと追い込んだ。なおこれ以前にも重巡洋艦青葉、古鷹、衣笠によるヘンダーソン飛行場への艦砲射撃は行なわれているがそちらは失敗に終わっている。
日本海軍は合計7回に渡り同様の作戦を展開したが、最終的には比叡と霧島をここで喪失している。
レイテ沖海戦
1944年10月サマール沖での日本海軍と米国海軍との遭遇戦。
金剛はこの遭遇戦で米駆逐艦サミュエル・B・ロバーツのボート・デッキに主砲を直撃させ撃沈。また利根や羽黒らと共に米空母ガンビア・ベイに接近戦を行い喫水線下に砲撃を与えガンビア・ベイを浸水によって沈没させている。
戦没
1944年11月21日3時6分、レイテ沖海戦による損傷のため日本へ帰投する最中、基隆沖で米潜水艦シーライオンの雷撃を受け2発の魚雷が命中。当初は航行には支障が無かったが、徐々に浸水。
乗員がこれに気づき修理を行なった時には既に遅く、午前5時30分頃転覆・沈没。艦長・第三戦隊司令官以下約1,300名が戦死した。
艦歴
1913年8月16日、英国ヴィッカース社で竣工。27.54ノット。
同日、横須賀鎮守府に入籍。
同年12月1日、第一艦隊旗艦を務める(※)。
1914年、第一次世界大戦ではミッドウェー方面哨戒。
1928年10月20日~1931年9月20日、第一次改装実施。25.37ノット。
1935年6月1日~1937年1月8日、佐世保鎮守府移籍。第二次改装実施。30.27ノット。
1941年12月~榛名と共にマレー方面に進出。その後、空母機動部隊に随伴してインド洋作戦に参加。
1942年10月13日、榛名と共にガダルカナル島の飛行場を砲撃。
1944年10月、レイテ沖海戦に参加。米国の空母と駆逐艦を撃沈。
※通例、第一艦隊旗艦は連合艦隊旗艦でもあるのだが、この年は連合艦隊が編成されなかった。ただし、1923年・1931年・1933年には連合艦隊旗艦を務めている。
エピソード
- 第一次世界大戦中、ドイツの巡洋戦艦などの高速艦艇に苦しめられていた英国海軍は、日本に金剛の貸与を申し込んだ事もあったらしい。
- ヘンダーソン飛行場を夜間襲撃した際、ガダルカナルに駐留していた米軍の主力は、当時、米国最強と言われていた「第1海兵師団」。
- 日本海軍史上唯一潜水艦に撃沈された戦艦である。重巡部隊と共同で攻撃を行い、世界で唯一米軍の空母を砲撃で撃沈することに金剛達は成功している。なお、戦艦による空母の撃沈例は世界的に見ても珍しく、他にはドイツの巡洋戦艦シャルンホルストがイギリス軍空母グローリアスを撃沈しているのみである。
- 第一次近代化改装にてロ号艦本式ボイラーに載せ替える形でヤーロー式ボイラーは全基撤去されたが、一部は東京の海軍技術研究所・科学技術庁金属材料研究所の建物用ボイラーとして1993年まで使用され、現在は広島県呉市の大和ミュージアムに寄贈され一般展示されている。
- 1917年(大正6年)に海軍機関学校の英語教師をしていた芥川龍之介が金剛へ搭乗し、その時の体験を『戦艦金剛航海記』に記している。同書では、「帽子をかぶった軍艦の夢」を見たと書かれている。