概要
ロシア語: Влади́мир Ильи́ч Ле́нин
本名:ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ
ロシア語:Владимир Ильич Ульянов
生没: 1870年4月22日 – 1924年1月21日
優れた演説をもって帝政ロシア内の革命勢力をまとめ上げ、世界で最初に成功した社会主義革命であるロシア革命において主導的な役割を果たした。
またソビエト連邦およびソ連共産党(ボリシェヴィキ)の初代指導者を務めた。
また彼はマルクス主義、すなわち科学的社会主義理論の研究と普及にも尽力し、『帝国主義論』『国家と革命』などの著作は大きな影響力を持った。
後日、かれの思想はスターリン一派の主導により、マルクス・レーニン主義という体系にまとめられた。
人物の歴史
幼少時
この人物は学者の功績により貴族待遇となった家に生まれた。幼少期は神童の誉れが高く、中高等学校時代には全生徒のうち一番だったといわれる。ところが兄が皇帝の暗殺を計画したとして処刑、ロシア帝国に警戒される。
その後マルクス思想に触れ、研究を始める。サンクトペテルブルク大学に入学後、法律及び語学を学ぶ。
社会主義者として
その後社会主義者として活動するも政府の弾圧により活動は困難を極めた。逮捕され、釈放されたのちスイスに亡命、新聞の出版にかかわる。この新聞がのちにソ連共産党の母体となる。またこのころペンネームとして「レナ川の人」という意味のレーニンの名前を使用するようになる。
ロシア社会民主労働党を立てるも、ボリシェヴィキ( 過激意見、要職等を抑えたため多数派を名乗った )とメンシェヴィキ(穏健派、多数派の対義で少数派とされるが、実際に外国ではこちらが支持された )に分裂。
その頃の彼は労農同盟論のベースとなる理論を提唱したり革命的祖国敗北主義を唱えたりしている。
ロシア革命
第一次世界大戦中の1917年、当時首都であったペトログラードのデモが暴動に発展、これに軍隊が同調し、帝政が崩壊したいわゆる二月革命が発生( 注意すべきはロシア帝国ではユリウス暦が使用されており、一般的な暦と13日のずれが存在したため、3月に発生している )、レーニンはドイツ政府の協定により封印列車で4月にロシアに帰還、立場を示すも、7月に発生した兵士による武装デモを受け再度フィンランドに亡命。
その後臨時政府の迷走などのため再度支持が広がり、10月に帰還、同月十月革命が発生し赤衛軍を率い臨時政府を打倒、政権をとる。土地などの公有化、8時間労働制度などを行うと同時に反体制派の弾圧を行う。
また、第一次世界大戦の講和条約に対してドイツの条件をのむことを主張、結果これは通らず、戦争となってより不利な条件で講和する羽目になったため、彼の支持は広がった。
その後
1918年、暗殺されかけたが未遂となった。ただしこれを利用して反対派を弾圧した。
また、第一次世界大戦の影響により社会主義者の国際組織であった第二インターナショナルが崩壊していたため、新たな国際組織であるコミンテルンを設立した。
さらに、ロシア正教会をはじめとした宗教に対する弾圧も行われた。
最期
しかし彼の肉体は遺伝的な要因及び革命とそれに伴う内戦のストレス、さらには暗殺未遂の影響もあり蝕まれていた。1921年末より体調を崩すようになり、さらにグルジアの問題もありスターリンなどと争っていたものの、1923年に倒れ、その一年後に死亡した。死因は脳梗塞によるものとされている。
彼の死体は保管( 一説によると内臓を摘出したのちホルマリン漬けに近い状態であるという )され、現在でもレーニン廟に保管されている。
思想等
彼の思想に関しては、一部はマルクスに影響されているものの、初期の著作を取り入れていないため相違する点も存在する。有名なとしては以下のものが有名である。
- 国家独占資本主義
独占資本主義が更に一歩進み、資本主義経済の矛盾が顕在化しだす。そこで国家・政府が積極的に経済に介入するようになるという考え方。マルクス経済学に取り入れられている。
- 二段階革命論
完全な資本主義として成立していない国においてまずそれまでのシステム、例えば絶対君主制や封建制度を革命等により廃止させ、資本主義を浸透させてから社会主義革命を行う、という考え方。
- 左翼小児病および極左冒険主義
これらは政党に関して述べたものであるが、「左翼小児病」は「共産主義勢力内部で、他の社会民主主義勢力などとの一切の協力を拒否する姿勢」を指し、「極左冒険主義」は「客観的情勢を無視して目的を優先し無謀な主張や行動を行う勢力」を指す。
- 革命的祖国敗北主義
革命は祖国の混乱時に行うべきであるが、戦争の敗北は絶好の機会となる。そのため、戦争への協力を拒否し、その混乱や弱体化に乗じて革命で政権を掌握させるべきとした考え。ただし、この考えは弾圧の原因となるためかなり危険なものである。また、「闘争には多くの犠牲が必要であり、自己を犠牲にしてでも「革命的敗北」を貫徹しなければならない」という革命的敗北主義、別名捨て石理論とは別の考えであり、それは極左冒険主義である。
またのちにスターリンは彼の理論等を統合し、マルクス・レーニン主義を唱えた。
作品等
【イラスト】