概要
インドの独立運動家で、インド国民会議派議長(1938 ~1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。
民族的出自はベンガル人で、ネータージー(指導者、नेताजी, Netāji。ネタージ、ネタジ とも) の敬称で呼ばれている。なお、スバスの部分は、シュバス(Shubhas)とも発音される。
インドでは、同じ独立運動家のマハトマ・ガンディーや、初代首相のジャワハルラール・ネルー以上に偉大な人物とされ、インドを独立に導いた英雄としてインド国民から最も敬愛されている。
生い立ち
1897年に、インド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタク(現在のオリッサ州)に生まれる。
父親は弁護士で、インド人の人権を教護することがしばしばあり、ボースはこの父親から大きな影響を受けたと後に語っている。
その後、カルカッタ大学に進み、大学ではイギリス人教師の人種差別的な態度がインド人学生の反感を買い、学生ストライキが勃発し、ボースは首謀者と見られ、停学処分を受けた。
しかしカルカッタ大学では学士号を取得し、1919年に両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学大学院に留学した。大学では近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究し、クレメンス・フォン・メッテルニヒの妥協無き理想主義に感銘を受けたと回想している。
独立運動
1920年には、インド高等文官試験を受験し、ボース自身の回想では試験には合格したものの、
「このままではイギリス植民地支配の傀儡となるだけだ」
と判断して資格を返上した(二次試験の乗馬試験で不合格となったという異説も存在する)
この頃からボースはインド独立運動に参加するようになっていった。
翌年の1921年に、マハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じたが、ボース自身は
「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」
という強い信念を抱いており、ガンディーの非暴力主義には強く反対していた。
1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年には、カルカッタ市長に選出されたが、ボースの独立志向とその影響力を危惧したイギリスの植民地政府の手により免職されてしまう。
しかしその後も、即時独立を求めるインド国民会議派の急進派として活躍し勢力を伸ばしていき、ボースはインド独自の社会主義「サーミヤワダ」を提唱し、若年層・農民・貧困層の支持を集め、この成果に自信を持ったボースは翌年の国民会議派議長に立候補した。
議長はガンディーの指名によって決定されることが慣例になっていたが、ボースはガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤに大差をつけて勝利した。
しかしこの行為はガンディーの支持を失わせることになり、ガンディーを支持する国民会議派の多数派からの支持も失わせることとなり、ボースはやがて議長辞任を余儀なくされ、さらに三年間役職に就けない処分を受けてしまう。
議長退任後には前進同盟を結成し、独自の活動も開始した。またボースは統一インドとしての独立を望んでおり、独立派内でのイスラム教徒との対立が激化する中で、パキスタンが分離して独立する事態を憂慮していたという。
開戦時
1939年、第二次世界大戦が勃発し、イギリスとドイツの開戦を知ったボースは、
「待望のイギリスの難局がついに訪れた。これはインド独立の絶好の機会である」
と述べ、1940年6月に、フランス降伏とドイツ軍によるイギリス上陸が迫ったことを知り、今こそがインド独立の好機とみてガンディーの説得を試みたが、ガンディーは闘争のための準備ができておらず、現在の蜂起は犠牲が大きいとして、
「君の良心にかけて、今が最善と信じるなら、君一人でやりたまえ、・・・・・・もし、成功したら、私は真っ先に君に祝福を贈ろう」
と語って拒否してしまう。これがボースとガンディーの最後の会談となった。
その後1941年4月2日、ドイツへ渡ったボースは、4月9日にドイツ外務省に対し、枢軸国軍によるインド攻撃を含む、インド独立のための構想の覚書を提出し、外務省情報局内には特別インド班が設置され、インド問題の専門家とともに活動できるようになり、ベルリンからラジオを使い、強烈にインド独立を呼び掛けた。
しかしナチス総統のアドルフ・ヒトラーは、インド独立運動家を「ヨーロッパをうろつき回るアジアの大ぼら吹き」と蔑んでおり、「インドは他の国に支配されるよりは、イギリスに支配されるほうが望ましい」と『我が闘争』に記していた。
1941年9月の食卓談話でも「イギリスがインドから追い出されるなら、インドは崩壊するであろう」述べるなど、イギリスによるインド支配が継続されるべきであると考えていた。
このためドイツは、ボースにベルリン中央部の広大な邸宅をあたえ、自動車や生活資金も供与したものの、独立運動への直接的な協力には極めて冷淡であった。
ヒトラーが根本的に有色人種を差別する体質であることを見抜いたボースは、ドイツでは目的は達成できないと判断した。
日本へ
1941年12月、日本軍がイギリス植民地であったマレー半島、シンガポール、ビルマに攻め込んでイギリスと交戦状態に入り、破竹の勢いでイギリス軍を撃破し、歴史的なマレー沖海戦(マレー作戦)の完全勝利にインド国民も歓喜していた頃、ボースは、
「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」
として、日本行きを希望して大使館と接触するようになった。
この状況下において、イギリスはインドを連邦自治領として、日本とインドの接近に楔を打とうとしたが、それまでボースの今が独立の好機であるという訴えかけに、曖昧な態度であったインド国民会議派は、ガンディー指導のもと1942年8月8日に、「イギリスよ、インドから撤退せよ」という強固な決議を出した。
宗教家兼政治指導者として、インド国民に絶大な支持があったガンディーの影響力を危惧したイギリスは、1942年8月9日にガンディーを検挙し、2年間拘留した。
その後ボースは、日本軍に協力していたビハリー・ボースやモハンシン大尉の強い要請もあり、大本宮はボースの受け入れを決定し、マダガスカル島沖でドイツの潜水艦・U180から日本の伊号潜水艦(伊29)に乗り移り、1943年5月5日に日本占領下のマラッカ海峡のサバン島に到着し、休む間もなく東京へ飛んだ。
ボースは東條英機首相と会見し、その会見において、「インド独立のため、日本は無条件で援助してくれますか。政治的なヒモがつかぬことを確約してくれますか」と要請し、初め東條首相はボースをあまり評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していたが、しかしボース来日から一ヶ月後に実現した会見で、東條首相はボースの人柄に魅せられ、一ヶ月後の再会談を申し入れた。
再会談でボースと東條首相は日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、ボースの要請を確約し、その後食事会にボースを招待した。東條首相は、ボースの影響でインドに対する考え方を新たにし、またボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えた。
こうして東條首相の確証を得たボースは、本格的にインド独立に向けて始動する。
自由インド仮政府樹立
1943年6月19日、記念すべき記者会見が、それまで着けていた覆面を脱ぎ、帝国ホテルで行われ、その後1943年6月27日、黒山のインド人群衆が押し寄せていたシンガポールの飛行場に到着し、山下奉文大将指揮下の日本軍特務機関の一つ『F機関』の藤原岩市機関長とモハンシン大尉が組織化した、インド国民軍の儀仗兵一個大隊に出迎えられる。
そして1943年10月23日、日本政府はボースを首班として同年10月21日に樹立した自由インド仮政府の樹立をを正式に承認する。
この自由インド仮政府は、イギリスのインド植民地支配以来、初の独立政府であり、日本政府は将来インドが真に解放される日まで、各般にわたり全面的に支援することを決定した。
チャンドラ・ボース首班は、同年10月24日に正式にアメリカ・イギリスへ戦線布告を宣言した。
そして、同年11月の大東亜会議には、オブザーバー(準資格参加者)として参加する。ボースはそのカリスマ的魅力で、国民軍の募兵を積極的に行った.
自由インド仮政府の初閣議において、インド民族の結束を強めるべく、インド人同士が交わす挨拶の全てを「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」に統一し、ボース首班を「ネタージ(総領)」と呼ぶことに統一された。
そして『自由インド仮政府樹立』宣言において
「……インド独立政府は成功への諸条件を獲得した。いまや最終的闘争決行のみが残された問題である。それは国民軍がインド国境を越えて、デリーへの歴史的進撃に乗り出すときにはじまり、独立旗がニューデリーの総督官邸の上に掲揚されるときに終わる」
と演説し、最後に壇上から「チェロ・デリー チェロ・デリー」(征け、デリーへ)と呼びかけ、インド国民軍とインド民衆二万人が唱和し、地鳴りのように轟いた。
ボースの尽力による、自由インド仮政府の樹立にインド国民は熱狂し、国民の怒りは支配するイギリスに向けられ、そこでイギリス領インド帝国政府は、始まって以来初となる武官総督ウェーベルが就任し、徹底的な弾圧が行われた。
インパール戦争
その後、ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による解放を目指し、1944年1月7日にビルマのラングーンに本拠地を移動させた。
ボースは同地においてビルマ方面軍司令官河辺正三中将と出会い、河辺中将は歓迎の宴席で示されたボースのインド独立にかける意志と、その後の態度を見てボースに惚れ込み、
「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」
と極めて高く評価するようになった。
その後、河辺中将の指揮のもと、インパールにて作戦が行われる。
詳細⇒インパール戦争
事故死
インパール侵攻の失敗により、インド国民軍はその後、主にビルマで連合軍と戦った。
その後、ボース首班は日本の降伏を、シンガポールで坪上大使から告げられ、部下に対する指示を済ますと、側近を連れて、サイゴンで寺内南方総軍司令官に、
「閣僚と国民軍首脳を従えてソ連入りを果たしたい。その場合、残した閣僚はわたしの後を追って来られるようご手配をいただきたい」
と申し入れ、シンガポールを飛び立った。
インド独立を終生あきらめなかったボース首班は、ソ連の支援を求め、満州に侵入してきたソ連と折衝する計画だったが、1945年8月18日に補給に立ち寄った台湾・松山飛行場から大連へ向け飛び立とうとしたとき、離陸事故で火だるまで放り出され、その時の状況をラーマン副官によると、ボース首班は
「……もう助からないと思う。君が国に帰ったら私は自由独立のため、最後まで戦ったといってくれ。もはや何人たりとも我々を束縛しておくことはできない。われわれは戦い続けなければならない。そうすれば遠からずインドの自由はやってくる」
と語り、息を引き取る間際、吉見軍医が遺言を聞くと、
「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく……安眠したい」
との言葉を残して永眠した。
午後八時、スバス・チャンドラ・ボース、享年48歳の生涯だった。
ボースの死後
そして日本の敗戦後、1945年11月5日にインドで軍事裁判が開廷し、インパール作戦でインド国民軍を指揮したセイガー、シャヌワーズ、クローバック・シンの各連隊長を被告とし、『反逆罪』とし、イギリスは向こう六ヶ月間にインド国民軍四百人の将兵を、『抗命』『通牒』『利敵』『反逆罪』で処罰すると発表した。
しかしこの裁判は、インド国民の戦意を喪失させようというイギリスの思惑とは逆に、インドの独立を決定づけることとなった。
被告三人は、民衆からボース首班の意志に基づいて、祖国解放のために戦った英雄として熱狂的に迎えられ、これにより奮起したインド民衆は一斉に決起し、いたるところで焼き討ち事件が起こり、デモと集会が波状的に連日連夜におよび、流血の惨事がインド全国各地起こる騒乱状態となり、動揺したイギリス政府やインド総督は減刑を行い、同日付で軍司令官命により、『執行停止』『即日釈放』が宣告された。
この裁判に召喚された日本人証人を前に、インド法曹界の最長老であるパラバイ・デサイ主席弁護人は、
「インドはほどなく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで三十年も早まった。これはインドだけではなく、ビルマも、インドネシアもベトナムも……東亜民族共通である。インド国民はこれを深く肝に銘じている。日本の復興にはあらゆる協力を惜しまない」
と述べている。
敵対したイギリスの側においても、ロンドン大学教授
のエリック・ホブズボーム博士は、インドの独立後に
「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである。」
と語っている。
ボースが息を引き取る直前に、「もはや何人たりとも我々を束縛しておくことはできない」との予言通り、被告は実質的に無罪を勝ち取った。
そして、ボースの故郷であるカルタッタでは、五百台の青年自転車隊、五百騎の騎馬隊を先頭に、「ネタージ・キ・ジャーヒン」(総領万歳)と連呼しながら、純白のサリーに身を包んだ五百人の乙女と五千人の青年隊、それに続く数十万人の市民による行進が行われた。
ボンベイでは、旗艦ナバタ号他二十隻をインド兵が占拠し、カラチでも旗艦ヒンドスタン号を占拠して、もしイギリス側が弾圧するなら全艦砲撃で応酬すると宣言した。
ボース首班が息を引き取ってから二年後、イギリスはもはや事態収拾は不可能と判断しインドに統治権を返還、1947年8月15日に『インド独立令』が発令され、インドは二百余年の鉄鎖から解放され、ついに独立を果たした。
逸話
アジアの守護神
チャンドラ・ボースは、インドが危急存亡の時に、北方から助けに舞い戻ってくると言い伝えられている。
実際に、インド国会議事堂のメモリアル・ホールには、右側にマハトマ(大聖)・ガンディー、左側にジャワハルラル(賢者)・ネルー、そして中央上にネタジ(統領)・スバス・チャンドラ・ボースの遺影が掲げられている。
日印友好の象徴
日本の蓮光寺には、ボースの遺骨が祀られており、インドの要人が度々参拝に訪れている。しかしながら戦後日本のマスメディアはこの事実を無視して一切報道しておらず、偏向報道の極みと問題視されている。
蓮光寺は現在、日本とインドの友好の聖地となっており、インドへ赴任されるビジネスマンは、お参りしてから出向く人もいるという。
日本の大学に
独立総合研究所代表取締役社長の青山繁晴氏は、戦後において大きく歪んでしまった日本人の歴史認識を改善するため、ボースの名を冠した『チャンドラ・ボース・ジャパン大学』の創設を安倍晋三首相に提案している。
関連作品
ボースの生涯を描いたインド映画作品
『Bose:The Forgotten Hero(ボース 忘れられた英雄)』
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青山繁晴…戦後日本の自虐史観を払拭するべく、彼の名前を冠した大学の建設を、安倍首相に進言している。