概要
第一次世界大戦における戦後処理を行うために開かれた、パリ講和会議(平和会議とも)において、日本の代表である牧野伸顕次席全権大使が議題に出した提案である。国際会議において、人種差別撤廃を世界で初めて明確に主張した議案とされる。
解説
アメリカの日本人移民が、排日政策によって迫害されていたことに胸を痛めていたことと国際連盟の中核となる白人種中心国家から人種的偏見により日本の存続を脅かされる可能性を危惧した日本は、慎重かつ穏便に問題を解決するために、この議案を提出した。
これは差別行為が当たり前であった欧米諸国にとってかなり急進的かつ画期的な内容であった。しかし「人種差別」という概念の解釈それ自体が国によって違うこともあり(例えば当時のフランスでは人種差とは宗教の違いを指していたり、国によっては有色人種への差別は差別として認識すらされていないということもあった。発案国たる日本でも、国内への移住者や保護下におかれて間もない朝鮮人や台湾人、中国人の中の一部との対立問題を抱えていた)、その条項の記載については慎重な、ある意味玉虫色の解釈ができる既述となることを要求された。
日本の代表として全権大使に任命された牧野は国内での調整段階においてはこの法案の成立よりも諸外国と積極的に同調し連盟の確立を優先すべきと主張したが、外交調査会の伊東巳代治らの強い反発を受けたこともあって、人種的差別撤廃提案は大筋として日本の主な方針となった。
そして牧野はパリ講和会議において大胆にも欧米人の代表らを前に、真の世界平和を達成するためには世界から人種差別を撤廃することが必須と訴え、会議は紛糾し何日にもわたった。
この人種差別撤廃法案は、世界平和を打ち立てるというパリ講和会議の表向きの趣旨とも合致する提案であったこともあり、アメリカの黒人協会は歓喜し「全米の黒人は日本国に最大の敬意を払う」 と賞賛した。さらにはアフリカ、アジアの指導者たちも喝采を送り、紛糾する会議上で牧野は、「この法案は日本国民の揺るぎない総意である。そして、世界の真の平和と平等を願う人々すべての揺るぎない総意である」 と主張した。
その後、会議に参加した多くの国の代表がこの提案に賛成し、イタリアやフランスなどの植民地所有国も賛成したが、アメリカ・イギリスなどの植民地を数多く持ち、その利権を手放したくなかった国は猛反発した。特にアメリカについては会議初期の交渉時こそアメリカ側の代表に受け入れられたものの、アメリカ国内にて内政干渉であると大きな反発を呼び、白人を中心とした世界秩序を混乱させる「危険思想」であり日本の陰謀であると受け取られてしまう。また、当時はイギリス帝国の自治領であったオーストラリアやカナダも白人の国作り「白豪主義」をとっていたため反対にまわった。
やがて採決が行なわれると、賛成11・反対5となり人種差別撤廃法案は圧倒的多数で支持され、正当な主張とされながらも、議長のアメリカ大統領トーマス・ウィルソンが、「全会一致を見なかった」ためとして法案は不採決と宣言。当然、これに納得できない牧野は「これまではみな多数決で決めてきたではないか。全会一致でないといけないとは、一体どういうわけだ!」 と詰め寄ったが、ほぼ強制的に否決されてしまった。
その後アメリカでは、この提案に反対したアメリカ政府に激怒した黒人達による暴動事件やそれに関連した白人による有色人種への暴行などの人種闘争事件が起こっており、100人以上が死亡、数万人が負傷している。この一件から日本を敵視するようになったアメリカは、日英同盟を崩しにかかっていく。
さらに日本国内でも新聞世論や政治団体が憤激、牧野や政府の外交姿勢を軟弱と批判する声だけでなく、国際連盟加入を見合わせるべきという強硬論すら噴出し、アジア主義者や反米英主義者達による政治結社が多く結成された。そして日本は対外的には協調姿勢で臨んでいくものの、ここで生まれた日本国民の不満や対米感情の悪化、欧米不信感はやがて1924年のアメリカの排日移民法成立や1929年の世界恐慌等を経て、太平洋戦争の呼び水の一つへと変容していくこととなる。この裏には、日露戦争後にポーツマス講話条約を結んだ当時の日本政府に対して、日本の新聞社が一斉に批判し、国民を煽ったことで世論が戦争賛美に傾いていた時期であったことも原因であり、その後1932年に、軍縮の方針をたてていた政府に反発した海軍の青年将校による五・一五事件が起こる。
「人種的差別撤廃提案」の評価
提案の評価について、『人種差別撤廃要求の前に』の著者石橋湛山は、「自らが中国人、朝鮮人を差別しながら、この提案をしたところで何の権威があろう」などと主張しているが、日本国内での調整段階では当初、提案を提出した牧野大使自身は、この法案を実現させることよりも諸外国に積極的に同調して連盟を成立させていくことを優先すべきとの意見を持っていた。
しかし、外交調査会の伊東巳代治らの反発を受けたため、これを日本の主な方針としていくことが決定したという経緯がある。
また、この提案はむしろ日本において協力や近代化を拒んだ一部の台湾民族や朝鮮民族との人種問題を解決できるようにするために訴えられたものでもあり、欧米諸国の植民地支配地域における人種差別意識は、日本とは比べものにならなかった(日本における台湾や朝鮮半島の統治は、植民地・領土化というよりは保護国・保護領に近かった)。
そもそも国際政治の舞台で、人種の平等の確立を訴えたのは、日本が世界で初であり、この日本の主張は、欧米諸国による惨たらしい人種差別にあえいでいた有色人種民族や、植民地支配国の人々から絶賛された。
ある日、牧野がホテルから出かけようとすると、アフリカのリベリアに住むという黒人の人物が牧野に近づき
「会議では、人種問題で非常に御奮闘下さって、ありがとうございます。私たちアフリカの黒人は、白人のもとで大変苦しめられております。ぜひしっかりやって下さって、なんとしてでも人種の平等を成立させてください。我々は心から応援します」
と話しかけられた。牧野は「わかりました。 日本としても全力を尽くすつもりです」と答えた。その後しばらくすると、今度はアイルランド人の女性が牧野を呼び止め、
「私の国は、昔からイギリスにひどい目に遭っています。どうか我々の苦しい境遇をお察しくださり、演説をお願いします。日本が、人種差別撤廃法案を会議に出してくれたことを本当に感謝しています。どうか頑張ってください」
と話しかけられた。それに対し牧野は「わかりました。我々を応援してください」と答えたという。