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スハ43系の編集履歴

2018-03-22 06:09:48 バージョン

スハ43系

すはよんじゅうさんけい

スハ43系客車とは、1951年から日本国有鉄道が製造した客車形式である。

概要

スハ43系客車とは、1951年から日本国有鉄道(国鉄)が製造した客車形式である。いわゆる「旧客」の1つ。本形式は急行客車であったが、数年して間もなく普通列車運用に就くことが多く、鉄道ファンからは一般型客車と呼ばれる事も多かった。


国鉄民営化直前の1987年まで定期運用に就き、現在JR東日本では臨時列車ながらも動態保存車が運行されている。


主な形式

普通車

スハ43

1951年から製造された3等車。車体の完全切妻化や雨樋管をプレスによる偏平な形状に変更など様々な新仕様が取り入れられ、特に台車はTR47台車という新形式により乗り心地を大幅に改善された。

698両が製造され後に軽量化の為(もあるが10系の改造寝台車であるオハネ17・スハネ16に乗り心地の良い台車を召し上げられたという一面もある)1961年~1963年にかけて328両がTR23台車などに履き替えられオハ47に改番。

また製造後の重量検査の結果、自重がオ級に収まっていた160両(台枠の厚み圧縮や合板厚の削減座席台座の鋳物製品から薄手のプレス製品への変更など逐次軽量化の工夫があり、メーカーによっては後年のグループは軽めに仕上がっていた)がオハ46に改番された。


スハフ42

スハ43の緩急車版で、こちらも1951年から新製された。車掌室は車端部にあるのが特徴。

合わせて335両が製造された。スハと異なりスハフは台車を交換したところで重量等級が下がらないため、台車履き替えは実施されなかった。軽量化は車体そのものに手を付けたオハフ45の新造またはオハフ33 630(1両のみ)の改造まで待つこととなる。


オハ47

前述の通りスハ43をTR23台車などに履き替えた車両。台車のブレーキテコの形状と寸法を変更し台車の上心皿と下心皿を改造したTR23台車を履き替えた(一部の車両は円軸コロ受やTR34台車を使用したのもあった)。

車両自体の軽量化したものの、揺れ枕の吊りリンクが短いTR23台車を流用している関係で乗り心地はやや悪くなった(ブランコの理屈通り、振幅自体は抑えられるもののキコキコという小刻みで不快な振動を助長するためである)。従来系列より下に50mm厚いスハ43の台枠構造に起因して心皿は必然的に加工したものの(スハ43のTR47と、後述の特別2等車スロ51~54のTR40Bの差異は心皿及び中梁部分の構造である)、揺れ枕吊りの延長(グリーン車・寝台車などでは実施し、TR23DまたはEと呼称)にはまず支点がぶら下がっている中梁を取り替えねばならず台車の解体が要り工数と費用が大幅に嵩み、普通座席車には実施されなかったためである。

なお類似車として、「東田子の浦事故復旧車」が1両のスハ42以外、オハ47(と緩急車オハフ46)にしか見えない外形で復旧しているが、いずれもオハ35系の形式で車番を付けられている。


スハ45・スハフ44

スハ43・スハフ42の北海道向け仕様車は、オハ61系に対するオハ62系と同様、別形式が与えられた。車体の基本構造はほぼ同じだが(外観も遠目には大差ない)、冬場-20℃台も当たり前な気候に順応するため、窓の二重化や暖房システムの強化、部材の凍結防止対策がなされている。

なお、後天的にスハ43・スハフ42を北海道向けに改造したグループは、構造的にこのスハ45・スハフ44とほとんど同じながらこれには編入されず、元形式の別番台に改番された。


※ここに荷物合造車(オハ35系のスハニ32相当)がないのは、60系客車の台枠を使った改造車で登場したためである(オハニ63→オハニ36・スハニ37)。


優等車両

マシ35・カシ36

1950年予算で1951年に登場した食堂車洋食を基本とするためか全幅2.8mの車体では通路を差し引くとテーブル配置は横1+2の3列、計30席分しか席が作れなかった。合計5台のみであるが、設備の違いで形式が別れ、当初はマシ35が3台、カシ(当初マシ)36が2台で登場している。

カシ36では電化キッチンを搭載したが、電源が車軸発電機で不安定な上、当時の調理師の鍋使いが結構荒く(あおる際なのか叩きつけるようなフライパンの振り方をしていた)、電熱線を埋め込んだ天板面が割れたりもした。その反省のためか、登場の2年後ひとまずカシ36はキッチン設備のうちコンロと温水器を石炭ストーブに、食材用の電気冷蔵庫を氷冷蔵庫に交換(これに伴いマシ35形10番代に編入)、5年後に軽量客車として登場した10系のオシ17も厨房に関してはマシ35相当となっている。

後年の20系客車151系電車の食堂車のコンロは、電源の余力が出来ようやく完全電化キッチンとなったが、今市販の電気コンロではまず見かけない、恐ろしく頑丈そうな鋳物製品と思しき五徳の間にシーズ線が潜らせてある。

この形式から台枠が下に厚くなっており、台車もスハ42以来のTR40(~TR40A)に見えるが実は心皿の低くなった専用設計、TR46となっている。

スロ51・52/スロ53・54

いわゆる「特別2等車」として登場。

51・52と53・54とでシートピッチが違い、53以降の1160mmがその後の標準となった。

外形上、全てスハ43のグループに完全に属しているように見えるが、実は台枠の中心部分の組み方が前系列オハ35系のそれに近く台枠底部のレール面上高さが高いため、台車もTR47ではなく、その前身のTR40(バネの柔らかいTR40B)となっている。

この台枠の構造差のため、後年冷房化の対象となったスロ54は冷房機器・電源の搭載により重くなる自重を帳消しにするためTR23を改造したTR23D、E(内容は上述のオハ47参照)に、他の形式は通勤客車や荷物車などになった際にTR23等へ交換して荷重を確保しているが、これらは心皿高さを大きく変更したりはしていない。



他の私鉄会社でのスハ43系

南海電気鉄道

当時の国鉄紀勢本線方面への直通列車として、モハ2001形3両牽引+客車1両による「南紀直通客車列車」が運行されていたが、使用されていた客車は国鉄からの借り入れであった。自社所有客車での運用を望んでいたことから、スハ43をベースとして1952年5月にサハ4801形が1両新製された(名義上は木造車体の電車の鋼体化改造。あくまで「ベース」であるためか、屋根高さや台車中心距離などが原型スハ43と異なる)。塗色は当時の南海でおなじみ緑色1色で、客車列車のなかでも異彩を放っていた。定期検査時は従来通り国鉄からの借り入れをとっていた。

当初より蛍光灯照明(今と異なり蛍光灯が高価で珍重されていたため、まず優等車から使うのがセオリーであった)で座席もシートピッチはスハ43と同一寸法ながら一見二等車様な仕立てのため、特別料金を取られると勘違いが多発、紀勢線内ではむしろ空いていたという。

暖房熱源は南海線内は電車から供給の電気、紀勢線内は蒸気を用いた。

その後、国鉄キハ55系ベースのキハ5501・5551形「きのくに」の台頭や、難波駅建て替え工事の関係で南海の客車列車は1972年3月に終了した。モハ2001形が退役したため、晩年はモハ1551形4両牽引+客車1両の組成だった。


津軽鉄道大井川鐵道(大井川鉄道)

いずれも国鉄からの譲受車両である。津軽鉄道ではオハ46が2両在籍しストーブ列車の客車として運用される。大井川鐵道ではオハ47が4両(そのうちの3両はオハ46からの改番)、スハフ42が4両在籍し、SL列車の客車として活躍中。


関連タグ

客車 旧客 旧型客車 日本国有鉄道 国鉄

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