トウショウボーイ
とうしょうぼーい
※以下、馬齢は2000年以前の旧表記で記載する。
生涯
父のテスコボーイはイギリス生まれの種牡馬で、他の著名な産駒にテスコガビー・キタノカチドキ・サクラユタカオーがいる。
4歳(1976年)
当初は3歳でデビューする予定だったが、馬体に反して筋肉の発達が遅れたことが要因で、年が明けてから、池上昌弘を背にデビューとなった。
1月31日に東京競馬場で行われた新馬戦を優勝。このレースには、後にライバルとなるグリーングラス(4着)、自身との間に三冠馬ミスターシービーを産むシービークイン(5着)がいて、「伝説の新馬戦」と呼ばれる。
続くつくし賞・れんげ賞(共に条件戦)を勝利し、3戦無敗でクラシック第一冠・皐月賞に臨む。
ここで待ち受けていたのが、ここまで5戦無敗の関西馬で、自身最大のライバルとなるテンポイントだった。
単勝オッズはテンポイントに次ぐ2番人気だったが、テンポイントを5馬身突き放して優勝を飾る。
しかし、トウショウボーイは馬体を併せられると弱いという弱点があり、それを「闘将」加賀武見が騎乗するクライムカイザーに突かれて、2着に敗れてしまった。
しかし、スタートの遅れが原因で追い込みが届かず2着に敗れ、この連敗の責任を取らされる形で池上は降板となった。
新しいパートナーに、「天才」の名をほしいままにしていた福永洋一(福永祐一の父)を迎えた。
レコードタイムを叩き出し、クライムカイザーにダービーの雪辱を果たした。
続く京都新聞杯(現【GⅡ】)もクライムカイザーを再び退け、菊花賞に臨んだ。
菊花賞は1番人気に推されたトウショウボーイだったが、伸びを欠いて3着。
優勝は、新馬戦以来の対戦となったグリーングラス。2着はテンポイントで初めて先着を許した。
この菊花賞を最後に福永はトウショウボーイに乗らなくなる。
トウショウボーイは年末の有馬記念に出走。
レースはテンポイントを抑えて優勝。
この年は10戦7勝の成績を残し、年度代表馬と最優秀4歳牡馬のタイトルを獲得した。
5歳(1977年)
しかし、前年秋の過密なローテーションが祟り、復帰は6月までずれ込むこととなった。
当初は天皇賞(春)に出る予定だったが、状態が思わしくなく回避した。(なお、天皇賞はテンポイントが優勝した。)
5歳の初戦は宝塚記念となった。
天皇賞を勝利したテンポイントが1番人気、休養明けのトウショウボーイは2番人気だった。
しかし結果はトウショウボーイが勝利した。
続く高松宮杯(現・高松宮記念。1995年までは2000m)は、62kgという重い斤量に加えて不良馬場という悪条件が重なったが、逃げ切って勝利。ちなみに単勝オッズは1.0倍で元返しとなった。
秋の初戦はオープン(騎手は黛幸弘)でここも難なく勝利。
そして、残るビッグタイトルである天皇賞(秋)に出走する。(秋の天皇賞は、1983年まで春と同じく3200mだった。)
天皇賞は1980年まで勝ち抜け制度が敷かれていたため、この年の春を勝ったテンポイントは出られなかった。
このため、トウショウボーイVSグリーングラスの図式となったが、結果的に両者共倒れとなり、生涯最低着順となる7着に敗れた。なお、勝ったのは宝塚記念で戦ったホクトボーイだった。
そして、年末の有馬記念を最後に、トウショウボーイは引退することを表明する。
数多くの名勝負を繰り広げてきたテンポイントやグリーングラスと最後の戦いとなった。
レースはトウショウボーイとテンポイントのマッチレースとなり、最後はテンポイントが競り勝った。
翌年1月8日の引退式で4歳時の主戦だった池上を背にラストラン。こうしてトウショウボーイはターフに別れを告げた。
引退後
引退後は予てからの通り種牡馬入りする。
当時は内国産の種牡馬は不人気だったが、2年目の産駒から大物が生まれた。
新馬戦で共に戦ったシービークインとの仔が、1983年にシンザン以来史上3頭目の三冠馬となった。その馬こそミスターシービーである。
競走成績と種牡馬成績が評価され、1984年に顕彰馬に選ばれた。なお、ミスターシービーも1986年に顕彰馬に選ばれており、史上初の父子顕彰馬となった。
ミスターシービーの他にも、アラホウトク('88桜花賞)、パッシングショット('90マイルチャンピオンシップ)、ダイイチルビー('91安田記念、'91スプリンターズステークス)、シスタートウショウ('91桜花賞)といった活躍馬を多数輩出。
ほぼ毎年のように重賞勝利馬を出したこともあり、特に中小規模の生産者からは「お助けボーイ」と崇められた。(父のテスコボーイも「お助けボーイ」と呼ばれた。)
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