概要
1909年創業。 正式な社名は「アウディAG」。
現在はドイツのバイエルン州インゴルシュタット市に本社があり、1964年以降はフォルクスワーゲングループの子会社として傘下入りしている。
略史
現在のメルセデス・ベンツの社員であったアウグスト・ホルヒが独立する形で創業。
紆余曲折経て1910年に「アウディ」という社名とブランド名に変更した。
新たな社名の由来は、創業者のホルヒ(horch)の名がドイツ語の『聞く(horchen)』を連想させたためそれをラテン語にしたとされる。
1932年にザクセン州に本社を置いていた4つの自動車メーカー(アウディ、ホルヒ、DKW、ヴァンダラー)が合併して新会社「アウトウニオン」へと生まれ変わった。現在まで使われているアウディのエンブレムである「4つの銀の輪(フォーシルバーリングス)」もこの時生まれた。
アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツは国威高揚の策として、ヨーロッパ・ドライバーズ選手権(F1の前身)で活躍する自国メーカーを支援。これにフェルディナンド・ポルシェ(後のポルシェ創業者)の手腕も加わって、アウトウニオンは1936年にチャンピオンを獲得する。
ドイツが第二次大戦で敗れ、占領統治が始まると、アウトウニオンの拠点であるザクセン州はソ連軍の占領地域となり地域内の各工場は賠償物件として接収された。 これが後に東ドイツ車のトラバントを世に送り出したVEBザクセンリング社の基礎となっている。
一方西側の米英仏の占領地域ではアウトウニオン存続へ向けての動きが活発化し、1947年にはバイエルン州に本社を移転して新法人が設立された。 新アウトウニオンはそれまでの4ブランドを「アウトウニオン」と「DKW」の2つに集約し、「4つの銀の輪」エンブレムをメインに押し立てた。
そしてフォルクスワーゲンの傘下入り後の1965年9月のフランクフルト自動車ショーで「アウディ72」を発表し、ブランド名としての復活を宣言した。
1969年にロータリーエンジン(ヴァンケルエンジン)の基礎を考案したNSUと合併し、「アウディ・NSU・アウトウニオン」に社名を変更。
そして1985年までには社名・ブランド名ともに発音しやすい「アウディ」に改称された。
アウディ車の主な特徴
アウディを語る上で外せないのは、1980年代に開発したフルタイム式四輪駆動の「クワトロシステム」である。従来はピックアップトラックやクロスカントリー系のヘビーデューティーなSUVの象徴であった四輪駆動を、乗用車にも用いたのは画期的であった。
正確にはその分野では1970年代に日本のSUBARUも先んじていたが、こちらはあくまで雪道用のパートタイム式四輪駆動であり、舗装路用に本格的なフルタイム式を採用し、業界に広めたのはアウディが最初である。
元々中級クラスのメーカーであったアウディは、クワトロシステムでWRCやツーリングカーレースなどを席巻し、ポルシェやメルセデス・ベンツに匹敵する上級車メーカーへと移行した。
他にはアルミボディやLEDライトなどの先進技術をいち早く採用したことでも知られる。
00年代にはディーゼルエンジンを最も強力に推し進めたメーカーの一つであり、ル・マン24時間レースではディーゼル車で何度も総合優勝を収め、ポルシェの跡を継ぐ「新耐久王」の名を欲しいままにした。
しかし2015年のディーゼルゲート以降は、他の欧州車メーカーとともに電気自動車推進へ転換している。ル・マンからも撤退し、フォーミュラEやシリーズ式ハイブリッドでのダカールラリー参戦へと切り替えている。
現在は同一グループのフォルクスワーゲンやポルシェ、イタリアのランボルギーニ、英国のベントレー、チェコのシュコダ、スペインのセアトなどと、幅広く技術やプラットフォームなどを共有している。
エントリーモデルではフォルクスワーゲンの前輪駆動車のお化粧直しをしただけ、と揶揄されることもあるが、全体的にはそうしたモデルは少数である。
また現在ランボルギーニがほぼ全車に採用する四輪駆動システムは、味付け以外の部分ではクワトロシステムと考えても差し支えない。
日本でのCMナレーター
:80年代にアウディを取り扱っていた輸入車販売専門店ヤナセのCMでナレーションを務めた。キャッチフレーズは「道を拓くのは、いつもアウディ」。