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古谷敏の編集履歴2022/07/22 15:22:58 版
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古谷敏

ふるやびんまたはさとし

日本の俳優・スーツアクター。ウルトラマンのスーツアクターとして知られている。芸名での読み方は「ふるや びん」であるが、本名読みの「ふるや さとし」で表記されることも多い。

人物像

1943年、今の東京都港区西麻布に生まれる。

東宝演劇学校卒業後に東宝第15期ニューフェイス(同期は二瓶正也氏)として東宝に入社。エキストラとしていくつかの映画に出演後、『吼えろ脱獄囚』で正式に役者デビュー。

1965年に東宝の指示で円谷プロダクションに出向。『ウルトラQ』に俳優として出演後、180㎝の長身を見込まれ、ケムール人ラゴンスーツアクターを務めた。

翌年には円谷プロの次回作『ウルトラマン』にて初代ウルトラマンのスーツアクターを1年間演じ、『ウルトラセブン』では視聴者からの要望とウルトラマンでの実績をねぎらいウルトラ警備隊のアマギ隊員役でレギュラー出演した。

セブン終了後は俳優を引退し、怪獣ショー主催会社「ビンプロモーション」を設立しアマギ隊員を演じて司会を担当。全国に興行し、70年代に入ると第二次怪獣ブームの中怪獣ショー興行や『突撃!ヒューマン!!』の劇中アクションも担当した。

1993年、バブル崩壊のあおりでビンプロモーションを解散。同時に多額の負債を抱え、この返済に追われながらアルバイトで生計を立てるようになり、表舞台から姿を消した。

この間、一部の特撮ファンの間では「夜逃げした」「今なお借金取りに追われている」「一家離散した」といった憶測が飛び交い、一時は死亡説まで浮上していた。後に自伝で回顧したところでは、1994年までに破産と免責が認められ、1996年には知人の紹介で清掃業に就き、以降はいくらか安定した生活を送っていたとのことで、これらの噂は事実ではないそうだ。

2007年、古谷が東京三鷹で開催されていた「成田亨展」の新聞記事を見て会場に顔を出し、来場者名簿に記入して帰ると、未亡人から「ビンさんが来てくれるなんて」と涙声で電話がかかってきた。それがきっかけで数週間後、『ウルトラセブン』で共演したひし美ゆり子から「ずっと捜していた」と連絡が入り、科特隊員を演じた桜井浩子ら円谷プロ関係者と再び連絡を取り合うようになり元気な姿を見せることとなった。

2008年の『ウルトラセブン超百科』と『ギララの逆襲』で俳優業に復帰。

2013年にウルトラマンのブルーレイボックス発売を記念したイベントで、円谷プロが新たに制作した「古谷敏専用ウルトラマンスーツ」を着用し登壇。47年ぶりにウルトラマンとなった。

2022年公開の映画『シン・ウルトラマン』では、成田氏が目指したウルトラマン本来の姿を実現するというコンセプトのもと、古谷の体型をスキャンしデータ化したものが今回のウルトラマンのデザインに用いられており、長身痩躯の印象的な立ち姿を形作っている。古谷氏自身も俳優としての直接の出演はしていないものの、庵野秀明氏と共にウルトラマンのモーションキャプチャーを担当した。

エピソード

  • 実家は建具屋で、7人兄弟の五男。大のおばあちゃん子だったらしく「おばあば」と呼んで慕っていた。
  • ウルトラマンを演じることになったきっかけは、ウルトラQでスーツアクターを演じたケムール人の181cmの長身な体型にほれ込んだ成田亨のたっての希望で、古谷氏と何週間も交渉を重ねようやく承諾した。そのケムール人も「こんなのに入るなんて嫌だ」とかなり渋ったらしい。
  • 当の本人は当時、スーツアクターという顔の見えない役柄には複雑な心境を抱いており(当初は全く乗り気ではなく断ろうとしたこともあったとか)、さらにはマスコミから「プロレスごっこ」と叩かれたこともあって何度か降板も考えていた。ある日降板を告げるために円谷プロへ向かうバスに乗っていたところ、たまたま乗り込んできた子供達が楽しそうにウルトラマンの話をするところを見かけ、「今降板したらこの子たちの夢を壊すことになってしまう」と思い直し、同時に自分が子供のころ大好きだった嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』と重ね、最後まで全力でやりぬいた。
    • バルタン星人を前に、円谷英二がウルトラマンに話しかけている有名な写真があるが、この時のウルトラマンも古谷本人であり、『ウルトラマン』最初の特写会の一幕であるが、音の聞きづらいスーツに加え、周囲の音に円谷英二の声はかき消されてしまい、古谷にはかろうじて「夢だよ、夢を、こ……」という言葉しか聞こえなかった。しかしこの時に「夢だよ、夢を子供たちに見させてあげるんだよ」と言っていたのだと考え、それまでの自分を自省することとなった。
  • ウルトラマンといえば、前かがみになっている戦闘スタイルが特徴的だがこれは「スーツアクターに不慣れな古谷が火薬を使った撮影に腰が引けてしまい、これが腰を落として間合いを取っているように見えてしまい、定着した」という助監督の満田かずほ氏の定説が一般的だった。本人は演技上意図したものであること、映画『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンのナイフを使った戦闘シーンで前かがみになった場面を参考にしたと証言している。また古谷氏は8頭身であるためカメラから見切れてしまい、高野宏一カメラマン(後に特技監督)の指示で少しずつ屈みを大きくした結果、このポーズが誕生したという。そのため「火薬に腰が引けていた」という説は誤りの可能性が高い。
  • 撮影で一番怖かったことに「水中での撮影でマスクに入ってきた水が密着しているスーツとマスクから抜けずに溺れてしまった事」と語る。また火も怖かったらしく、今とは違って本物の火も撮影に使っていて熱風がスーツの隙間から入ってきて苦しくてもがいていたのに、『いい演技だね』と褒められたり、当時はスポーツドリンクもなかったから、脱水を防ぐために水道水とレモン、塩を用意していた。救急車を呼ばなかったのが奇跡と思えるほど過酷だったと回想している。のちに金城哲夫氏に改善を要求し、シャワー設備などを用意してもらったらしい。
  • ゴジラを演じたことで知られる中島春雄と戦闘した所、本気で襲われたため自伝で「怪獣よりも怖い」と称している。
  • スペシウム光線のポーズは監督の飯島敏宏とカメラマンの高野宏一の3人で考案。体に覚えさせるため1日300回練習し、今でも駅やホテルで鏡を見るとついポーズを取ってしまうという。

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