概要
ベレンコ中尉亡命事件(MiG25事件)とは、1976年9月6日に、ソ連国土防空軍のヴィクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉がMiG-25戦闘機で北海道の函館空港に強行着陸し、アメリカ合衆国への亡命を求めた事件である。この事件は、冷戦下の世界を大きく騒がせた。
ここではベレンコについても同時に解説する。
生い立ちから憂鬱
1947年2月15日、ロシア西部ナリチクの軍人の家庭に生まれた。父親は陸軍軍曹であり第二次世界大戦ではパルチザンとして活躍した事もあった。
しかし、ベレンコは物心つく前に苦難の生涯が始まってしまう。2歳の頃に両親は離婚し、その後父親は二児の母親の女性と再婚するが、ベレンコは継母から食事内容を差別されるなど陰湿な嫌がらせを受け、過酷な少年時代を過ごした。家庭に安らぎを得られなくなったベレンコは、強靭な肉体と優秀な頭脳を培う事でその逆境を乗り越える事を志し、自分で森の川で魚を獲って焼いて食べたり、森の中で自力の訓練で体を鍛えたという。
防空軍の憂鬱
中等学校時代には航空クラブに所属し、兵召集後に航空学校へ入学し、ミコヤンMiG-19やMiG-21の操縦を学び、戦闘機隊への道へ進み、その後は防空軍教官にもなった。裕福な家の出の看護婦と交際し結婚。逆境から這い上がったベレンコの人生は順風満帆へ進む、かに見えた。
しかし、政府から与えられた新居は手抜きだらけのボロ家で、業者は横流しや役人への賄賂で審査を免除して手つかずの家にしていた。軍内部の堕落や不正、規律の乱れも目に余るもので、上官に訴えても上官はこの状況を顧みようとしなかった。これに業を煮やしたベレンコは第一線部隊への転属を申し出たが、惨状が明るみに出る事を恐れた上官は、事もあろうに彼を軍規違反として独房に放り込んだ。これに同情的な軍医が味方し、軍医の助言で拘束は解かれ、沿海地方チェグエフカ基地のソ連防空軍第513戦闘航空連隊に配属された。
しかし、この連隊がベレンコの最後の任地となった。ベレンコにとっての状況は好転するどころか悪化。僻地の基地の生活環境は劣悪で、赤痢患者が多く、横行する不正も規律の乱れも今まで以上に最悪だった。しかも家庭環境も悪化。一児を儲けたが妻は浪費家で家事をほとんどせず、おまけに都会育ちの彼女にとって僻地での生活は耐えられず、夫婦関係も不和となってしまい、離婚も切り出された。
ついにベレンコは29歳の時、祖国にも家族にも愛想を尽かし、国外脱出を決断。綿密な計画を立て始める。
亡命
自由への脱出
亡命を決めたベレンコは脱出先の計画に、戦闘機の航続距離と燃料消費を計算し、隣国日本の北海道にある航空自衛隊千歳基地を目的地に定めた。
そして運命の1976年9月6日。当日は編隊飛行訓練でMiG25を操縦することになり、KGB将校の監視を掻い潜ってメモを戦闘機に持ち込んだ。訓練が始まり、編隊の後方で飛行していたベレンコ機は徐々に他機から気付かれないように離れ、一気に急降下。救難信号を出すと無線を切り墜落を装い、海面スレスレの超低空飛行で北海道を目指した。超低空飛行することでソ連のレーダー網にひっかからず、地対空ミサイルもかわすことができた。予定では日本領空に入った後はスクランブル発進した自衛隊機に千歳基地へ誘導して着陸、という計画だった。
ところが、この超低空飛行が2つの誤算を生んでしまう。レーダーにかからないのはソ連だけでなく日本側も同様だった。空自は領空侵犯した未確認飛行物体を発見し、F-4EJがスクランブル発進したが、レーダーから不明機は消失し、F-4EJも搭載レーダーでは捕捉できずにいた。次の誤算が燃料。超低空飛行では機体を通常以上に維持するため燃料消費が計算以上に早かった。しかも、当時の北海道上空は厚い雲に覆われ千歳基地を発見できず、やむなく南下。
自衛隊機は現れず、燃料も残り少ない。焦ったベレンコだったが、とうとう燃料切れを警告する女性の録音音声が聞こえ、混乱に拍車をかけた。すると、偶然にも函館市を発見した。
函館激震
市内上空を駆け抜けたMig-25は函館空港を見つけ着陸態勢に入った。しかし、この時離陸しようと滑走路を旅客機が移動中で、やむなくベレンコは着陸を断念し、旋回して再度試みることに。何もいなくなった滑走路に強行着陸し、滑走路をオーバーランしてフェンス手前で停止。燃料切れギリギリだった。
初めて西側世界に降り立ったベレンコだったが、直後に工事中の現場作業員が近寄り、持っていたカメラで撮影。慌てたベレンコは銃で威嚇射撃し、カメラとフィルムを捨てさせた。
事態を受け管制官は自衛隊に通報し出動要請したが、警察へ電話するよう言われ、しかし警察は自衛隊に頼むようたらい回しにされてしまった。呆れた管制官は警察に早く来るよう伝え、事件発生から20分後に北海道警察が到着。とは言え、警察も混乱は続いており、通訳も英語ができる者しかおらず、ベレンコも英語はわからず、お互いに恐る恐る近づいて両者は接触。以後、空港は北海道警察により封鎖された。その後に自衛隊員が到着したが、当時は縦割り行政が強く、自衛隊も立場は弱く、管轄権を盾に締め出されてしまった。こんな時なんだから仲良くしろよ…。
空港の一室で取り調べを受けたベレンコはアメリカ亡命の意思を示し、持っていたメモを見せた。拙い英語で書かれた内容は「アメリカ情報機関に連絡を取ってほしい」「戦闘機を隠し誰も近づけさせないこと」だった。警察はMig-25をシートで覆い格納庫に隠したが、空港には野次馬や報道陣、さらに各国の大使館員や軍関係者が情報収集に多数押し寄せた。
ベトナム戦争が終わった当時、米ソ関係はある程度は緊張緩和されていたが、亡命目的のパイロットが最高機密の軍用機で対立陣営に侵犯したことは、無視できる事態ではなく、警察も自衛隊もベレンコ自身も、ソ連軍の機体とベレンコの奪還ないし破壊と暗殺を目的にした襲撃を恐れていた。事実その夜、北海道周辺に多数のソ連機が接近し、示威行動を見せた。陸上自衛隊は締め出されていたとはいえ函館駐屯基地は出動準備態勢をとり、高射機関砲と戦車も準備した。
渡米まで
市内のホテルに匿われたベレンコはそこで親子丼を食し、初めて食べた日本料理に喜んだという。7日にベレンコは東京の水上警察署に移送され、Mig-25は米軍と空自により輸送機に載せて茨城の百里基地に移送。この時機体には『函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました』と書かれた横断幕が掲げられた。
水上署でのベレンコは拘置所に入れられたが、牢屋の中であることに不快感を示したため、家具や家電、チェス盤などを用意し、食事も多く出され、快適に過ごせるようにした。8日にアメリカ代表者と面会し、亡命受け入れ表明を伝えられた。この時、アメリカ側から本が差し入れられ、ソ連で収容所を生き延び亡命できた人物の告白本を読んだ。
渡米を目前にして日本外交官からベレンコにソ連大使館員との面会に応じるよう頼んだ。ソ連は事件発生直後からベレンコの即時引き渡しとMig-25の返還を要求。日米に抗議を続け、「日本当局は遭難したベレンコを不当に拘束・監禁し、薬物投与や拷問をし、亡命という虚偽を捏造した」と主張を繰り返し、日本側の主張を聞き入れなかった。そこでやむなく、ベレンコ自身からソ連側に直接自身の意思を伝えるしかなかった。
9日、面会したソ連代表者はベレンコに帰国を優しく促し、事件の責任は問わないと提案。これにベレンコは亡命は自分の意志であり帰国しないと示した。ソ連代表者は態度を一変し裏切り者と叫んで憤りを露わにしたが、ベレンコはこれを無視。その日のうちに羽田空港からアメリカへ向け出発した。
その頃、Mig-25は米軍主導のもと解体調査されたが、機体は時代遅れの性能と構造であることが判明し、西側陣営でのMig-25脅威論は過大評価という結果だった。11月5日にMig-25はソ連に返還された。
第二の人生
亡命後しばらく、ベレンコは自身の安全確保の為に氏名と居住地を頻繁に変え、CIAや米軍関係者にソ連側に関して知りうる情報を提供した。しばらくしてベレンコはソ連で開かれた自分の関する記者会見のニュース映像を目にした。会見場には妻と自分の実母を名乗る人物がおり、涙ながらの妻は家での料理のことを話し、実母は会いたい旨を話したが、妻はまともに料理などしたこともなく、ましてや憶えてもいない実母の真偽などわかるはずなかった。かつての祖国が嘘だらけかを実感したという。
1983年9月に大韓航空機撃墜事件発生の際には当時商用で国外にいたベレンコは緊急に呼び出され、大韓航空機を撃墜したソ連の戦闘機パイロットの会話の鑑定や暗号解読に当たった。
やがてソ連が崩壊し、冷戦が終結すると、1995年にモスクワを訪れている。しかし翌年、サンクトペテルブルクの日刊紙がベレンコの事故死を大きく報じ、ベレンコはブチギレ。これを受ける形で同年11月、亡命20周年を契機にインタビューに応じ、ソ連時代・亡命の動機とそれに至る動向、その後の人生についてなどを詳細に語った。亡命後はアメリカ人女性と結婚して二児を儲けたが離婚。アイダホ州で航空イベント会社のコンサルタントをしている。
方々への影響
この亡命事件は日米ソ各々に多大な影響を与えた。日本ではレーダー網の脆弱性が露呈し、この事件を契機に日本における防衛論議の流れに変化が生じ、それまでは予算が認められなかった早期警戒機E-2Cの購入もなされた。
ソ連では最高機密が漏洩したばかりか、ソ連軍の内情まで公にされてしまった。設置された査問委員会が基地を調査して劣悪な環境に驚き、改善を急がせ、多くの軍人や指揮官の解雇や解任がされ、また僻地でのパイロットの待遇改善の契機になった。またさらなる戦闘機の性能向上開発が求められた。
アメリカでは対ソ戦略に大きな変化を与え、ソ連に対する脅威姿勢も一部低下がされた。
中には、「ベレンコはずっと以前からアメリカと通じており、亡命はソ連のイメージダウンを図った宣伝的演出」という陰謀論もある。
架空戦記や漫画でもこの事件にヒントを得たエピソードが描かれた作品も多くできた。