幼名は小吉・吉之介。のち吉之助・隆盛と改名。南洲と号した。
文政10年12月7日(1828年1月23日)~明治10年(1877年)9月24日
生涯
鹿児島城下において、下級藩士・西郷吉兵衛の長男として西郷吉之助が誕生。天保12年(西暦1841年)に元服して「隆永」と名乗った。
幼少より読書を好み、とくに陽明学を修めた。
弘化元年(1844年)に郡方書役を勤め、藩主島津斉彬の庭方役として重用されて藩政に関わったが、斉彬死後の時勢に落胆して殉死しようとするも失敗。この自殺を藩から問われて安政6年(1859年)、奄美大島に配流された。
文久元年(1861年)、帰還が許されたが、島津久光は京都での寺田屋事件(勤皇派の薩摩藩士の粛正)に関して、西郷が志士と接触したのではないかと疑い西郷を徳之島へ流罪にした。
しかし、文久3年(1863年)の生麦事件による薩英戦争勃発を知って密かに帰還し、大久保利通や小松帯刀の勧めで久光は元治元年(1864年)2月に西郷を放免召還にした。
7月、長州勢による禁門の変が発生し、佐幕派として西郷は薩摩勢を率いて長州勢を撃退。
慶応元年(1865年)の長州征伐で戦後処理に当たったが、この頃から討幕派に転じ、翌年に坂本龍馬の仲介を経て長州の桂小五郎(木戸孝允)と会談し、薩長同盟を締結。
西郷達薩摩は江戸幕府を武力で潰そうと考え、慶応3年(1867年)に倒幕の密勅を降下するも、その前後に徳川慶喜による大政奉還がなされてしまった。
そこで西郷達は慶応4年(1868年)に御所を藩兵で取り囲み、王政復古の大号令を出し、戊辰戦争が勃発。新政府軍を率いて旧幕府軍を倒していき、江戸へ向けて進軍した。そこへ、慶喜の特使として山岡鉄舟が慶喜の意向を伝えに接触し、勝海舟との会談を実現。会談によって江戸城無血開城を果たした。その後も北陸方面で転戦。
明治4年(1871年)、参議に就任し、親兵を率いて廃藩置県に携わった。岩倉具視らの遣外使節団の出発後に留守政府責任者を任され、学制を制定し、陸海軍省を設置しして陸軍元帥にもなった。しかし、対朝鮮外交をめぐって「征韓論」が起こり、明治六年政変で鹿児島へ下野した。
鹿児島では私学校を作って勢力を増し、独立勢力と化した。時を同じくして、各地で不平士族の不満が高まり、士族達の蜂起が相次いだ。これに対し西郷は、部下達に最後まで蜂起を否定した。しかし、鹿児島駐屯軍が弾薬を勝手に運び出し、私学校生徒達が軍隊を襲撃して弾薬を奪還。さらに東京の大警視・川路利良が密偵を潜入させていたことが判明。ついに明治10年(1877年)、西郷は私学校生徒と士族達に押されて挙兵。維新後最大の内戦西南戦争が勃発した。
熊本城を目指して進軍したが、苦戦の間に政府軍が到着し撤退。熊本県の田原坂で激戦となるも大敗し、宮崎県内から鹿児島へ敗走。城山が陥落して負傷。「ここでよか」と部下に言い残して自刃し、介錯を受けた。享年51歳。
「維新の三傑」の一人で、東京の上野公園にある彼の銅像(高村光雲の作)は、今も親しまれている。
人物
- 死後しばらく逆賊の大将とされたが、大日本帝国憲法発布に伴ってその地位を回復した。
- 現在知られている西郷の肖像は、ふくよかであごのしっかりした顔だが、画家のキヨッソーネが西郷の身内をモデルに描いたもので、本人とはあまり似ていないと言われている。西郷が写真嫌いでもあり、実際はどんな顔だったか謎とされている。
- 「隆盛」は本来父親・吉兵衛の名前で、吉之助の本名は「隆永」であったが、王政復古時に役所の名前申請で手違いが起こり、「隆盛」で登録されてしまった。このことに吉之助本人は、「まいっか」と気にすることなく自らその名を使い続けた。
- 喫煙者だが下戸。大の甘党で、「とんこつ」という薩摩の豚肉料理が大好物であった。この食生活のため晩年は肥満していた。
- 狩猟や漁を好み、山野を猟犬を連れてよく駆けた。上野の銅像も犬を連れている。
- 地元の鹿児島県では今もなお大変なカリスマである。生存説も実しやかに噂され、火星を「西郷星」と呼ぶ時期もあった。
- 明治天皇の教育者を厳しくつとめ、明治帝も飾らない彼を慕った。
- 「敬天愛人」=「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」
- 彼をモデルにしたのがハリウッド映画『ラストサムライ』の渡辺謙演じる勝元だという。