第96代天皇。
正応元年11月2日(1288年11月26日)~延元4年8月16日(1339年9月19日)
在位、文保2年2月26日(1318年3月29日)~延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)
日本史上異例な、積極的に中国式の皇帝独裁を指向した天皇。鎌倉幕府倒幕とその後の戦乱、南北朝分裂の混乱を招いたのは、だいたいこいつのせい。
生涯
歴代天皇の中でも特に波乱万丈に富んでいる後醍醐天皇の生涯は、大きく3つに分かれる。
倒幕まで
鎌倉時代の後期、後嵯峨天皇の子の後深草天皇と亀山天皇の子孫である持明院統と大覚寺統は、皇位継承について争っていた。貴族達も両派に付いて対立していたため、内部調整能力を失っていた朝廷に対して鎌倉幕府が介入し、両派の交替即位をさせていたが、お互いに有利になろうとする運動は激しさを増し、各派内部でも派閥争いが深刻化していた。
後醍醐天皇は大覚寺統の後宇多天皇の子であるが、兄の後二条天皇が早世した後の、いわゆる「中継ぎ」の当主であり、大覚寺統の皇位継承者はあくまでも後二条天皇の子孫とされ、後醍醐天皇は(後二条天皇の子孫が断絶しない限り)子孫に皇位を継がせる事ができなかった。
個人的力量が高く、密教と儒学(宋学)にも堪能だった後醍醐天皇は、邪魔者である大覚寺統本家(甥の邦良親王とその子の康仁親王。のちの木寺宮家)と持明院統と鎌倉幕府を打倒して、宋のような絶対君主制を樹立するために、正中の変・元弘の変と倒幕計画を企てたが失敗し、1回目は先手を取って計画を失敗させた吉田定房に庇ってもらったが、2回目は勘弁されずに隠岐に流されてしまう。
しかし、護良親王や楠木正成をはじめとする倒幕派の武将達が次々に蜂起すると、後醍醐天皇は名和長年の手引きで隠岐を脱出。船上山で倒幕の指示を出し、ついに足利高氏(足利尊氏)をはじめとする有力御家人も後醍醐天皇に付き、鎌倉幕府が崩壊し天皇は帰京。持明院統の光厳天皇と大覚寺統本家の皇太子康仁親王を廃位して、建武政権を樹立する(建武新政)。
建武政権
建武政権では後醍醐天皇が絶対君主として直接政治を掌握し、貴族と武士をともに従えようとしたのだが、
- 既存の家格・家職を無視した強引な人事で、貴族(北畠親房のような側近を含む)に総すかんを喰らう。
- 鎌倉幕府を牛耳っていた北条家当主(得宗)の身内びいきに不満を抱いていたために後醍醐天皇の味方になった者が多い武士を(側近以外は)冷たく扱い、不満を持つ武士達が名門・足利家の当主である尊氏のもとに集まる。
- 人事も恩賞も極めて不公平で、頻発した訴訟への対処も無茶苦茶。
- 経済政策の混乱(信用裏付けのない紙幣発行の強行と頓挫など)により、庶民にも嫌われる。
- 自派の武士を大勢抱える護良親王が足利尊氏と対立して混乱を招いたため、護良親王を失脚させる。
などなどの混乱が多発して、万里小路藤房のように政権に絶望して失踪する貴族まで出してしまう。
そして、北条時行が蜂起した際に鎮圧のため鎌倉へ向かった足利尊氏が、弟の足利直義らの後押しを受けて離反。畿内へ攻め込んだ足利軍を一度は九州へ追い落とすが、新田義貞らの追討軍が赤松円心(護良親王派だったため冷遇されていた)らの抵抗により足止めされている間に、九州で菊池一族を倒した尊氏が光厳上皇の支持を獲得して逆襲。湊川で楠木正成らを戦死させた足利軍は、千種忠顕・名和長年らを討ち取り、京都を占領した。
南朝の始祖
一度は幽閉され、持明院統の光明天皇へ譲位させられた後醍醐天皇だが、吉野へ逃亡してから三種の神器の所持と譲位の無効を自称。反足利派の貴族や武士を率いる南朝の始まりとなる。
(この時、吉田定房や北畠親房は南朝に合流するが、大覚寺統の本家である木寺宮家や、既に出家していた万里小路宣房は京都に留まっている)
その後、懐良親王を西国へ、宗良親王を東国へなど、各地に子供達を送り出して勢力挽回を試みたが、懐良親王以外は大勢力を樹立できないまま、新田義貞や北畠顕家などが次々と戦死していき、後村上天皇に譲位した翌日に崩御。陵墓は京都を向き北面して眠っている。
その後の南朝は、後村上天皇と長慶天皇が北朝(と支持母体の室町幕府)と戦い続けるが、後亀山天皇の代にはほぼ抵抗する力も失い、北朝に併合されて終わりを告げる。
後醍醐天皇の男系子孫は、室町幕府への反乱を企む者が擁立する事を危惧した足利義教が出家による断絶策を取り、応仁の乱の頃を最後に史料でも確認できなくなった。
没後の評価は、「不徳の君」という評価が定着していたが、幕末以降『太平記』の南朝正統論が過度に影響力を持ち、皇国史観が国定史観化した明治維新後には「建武の中興」とされ神格化される。
戦後には後醍醐を「無能な野心家」とする評価に再び戻った。近年では建武政権に対し「異形の王権」という面が強調されている。建武政権は、伝統的な王権秩序を構成する公家や武家だけでなく、その外側にあった悪党・被差別民・宗教家・海賊・武器商人など有象無象の勢力が一同に集った、日本史上他に例を見ない革命政権であった、ということである。建武政権時の改革の多くはその後の朝廷には引き継がれなかったものの、後醍醐という異形の天皇がその後の日本史に与えた影響については様々に議論されている。
人物
儒学のなかでも当時最先端の宋学に浸り、前例のない政策を連発した事で知られる。そのため、後醍醐天皇の事例は、長子相続制などの例外を除き、朝廷の前例としては扱われなくなった。
崩御後につくはずの諡号を、醍醐天皇にあやかって生前に自ら「後醍醐天皇」を考えた異例を作った。有名な肖像画は髭を長く伸ばし、法衣をまとっている異様な姿。自ら北朝を呪う儀式をしたともいう。歴代天皇の中でも、朝廷分裂という異常事態を招いた、かなり異例・異様・異形の天皇として有名。なお、密教への信仰には実利的な意味合いもあり、大寺院の持つ政治力も目当てにしていたと考えられている。
また、女性に手を出す事も多く、父の後宮の女性、実の叔母、幼女にまで手を伸ばしている。もっとも、学問や信仰と同じく政治絡みの面が強いのは、その幼女が朝廷の有力貴族の娘だったという点からもうかがえる。