グロバー・クリーブランド
ぐろばーくりーぶらんど
フルネームはスティーブン・グロバー・クリーブランド(Stephen Grover Cleveland)。自由の女神が完成した当時の大統領。後に史上唯一連続せずに再選した人物。また、歴代大統領の中で唯一、ホワイトハウスで結婚式を行った大統領としても有名である。大柄な男で、身長180cm、体重110kgもあった。
クリーブランドは1837年3月18日にニュージャージー州コールドウェルにおいて9人の子供のうちの1人として生まれた。
数年後、家族とともにニューヨーク州北部に移り住み、そこで成長した。クリーブランドは10代半ばにして父親を失い、その後はニューヨーク州バッファローに住む富裕で有力な伯父のもとへと移った。
彼はバッファロー市内の法律事務所で法律を学び、1859年にニューヨーク州の司法試験に合格した。その後クリーブランドはエリー郡の地方検事補、保安官となった。その一方で、民主党に所属する弁護士として地方で活動し、担当した職務へのひたむきな集中により次第に名声を高めていった。
選挙活動
1884年の大統領選挙において、クリーブランドは共和党のジェイムズ・ブレイン候補と争った。ブレイン陣営はクリーブランドが1863年に徴兵逃れ、1874年に不倫相手に隠し子を生ませた疑惑と主張した。クリーブランドはいずれの疑惑も事実と認めたことで、逆に有権者から誠実と受け止められた。一方、ブレインにも財界と癒着した疑獄事件が発生し、選挙戦は互いに中傷しあう泥仕合の様相を呈していたが、最終的に共和党の一部がクリーブランド支持に回ったことにより僅差でクリーブランドが勝利を収め、翌1885年3月、クリーブランドは大統領に就任した。
政治方針
彼は不屈の勤勉さ、信頼感、炎のようなエネルギー、正直さの塊であった。国民は政府に経済性、清廉さ、正義を求めるべきであり、経済的対立への介入や社会事業を求めるべきではないと考えていた。閣僚には、大多数を占める農民や労働者や少数グループからの代表はなく、法律、政治、ビジネス界から実力ある人物を抜擢した。
しかしながら、細部にわたるまで自分で決定しなければ気がすまない性格として、ブレーンとなる側近やスタッフを置かず、メディアとの接触も避け、孤高を貫いた。法案への拒否権の回数も著しく多く、第1期目だけで414回にも及んだ。(初代からの歴代大統領の拒否権数合計は204回。何と今までの合計の倍以上だ!)
返り咲き
1期目の大統領を退いた後、クリーブランドは一時ニューヨーク市で弁護士活動を行っていたが、マッキンリー関税法に反発、銀本位制による通貨膨張に強く反対し、1892年の民主党全国大会で大統領候補に再度選出された。1892年の大統領選挙では共和党が大手産業の利益を擁護し、労働者を見放す態度をとったため、大衆が民主党に味方し、大統領選挙は民主党の圧勝に終わった。一度負けた男は、再び政界に帰ってきたのだ。
クリーブランド大統領はアメリカのフロンティア消滅とともに領土拡張というアメリカの「明白な天命」は既に果たされていると信じていた。したがって、アメリカの領土をめぐっての海外進出に対しては消極的であった。ハリソン前政権から先送りされていた、実業界の利益を追求するために仕組まれたハワイ併合問題を認めなかった。スペイン領有のカリブ海に注目するキューバは、その戦略的位置と、砂糖の産出で注目されていた。19世紀になって独立を求め繰り返し反乱を起こしていたが、この反乱に介入せず、中立を保った。
しかし、1895年から1896年にかけて、イギリス領ギアナとベネズエラとの間の国境紛争に関しては、武力を使ってもイギリスに対抗すべきという断固たる態度をとった。結果としてイギリスは調停を受け入れることになった。これは外交的勝利として評価された。
ホワイトハウスを去った後、クリーブランドはニュージャージー州プリンストンに引退した。クリーブランドは著作に専念する傍ら、法律相談を受けたり、プリンストン大学の行事に参加したり、公共の場で講演をしたりした。
1898年、後任のウィリアム・マッキンリー大統領(共和党)による米比戦争とフィリピン併合が、被治者の同意の必要性という建国以来の共和主義の理念に反するとして反対し、アメリカ反帝国主義連盟を結成した。
1902年の無煙炭労働争議に際して、実情調査の労をとることを時の大統領セオドア・ルーズベルトに申し出た。1904年には、アルトン・パーカーを大統領に推薦して、短期間ではあるが政治活動を行った。1905年からは「公正なる社会保障協会」の再建に積極的に参画した。
1908年、クリーブランドは死去した。クリーブランドは国葬で送られた。
クリーブランドの肖像は1928年から1946年まで1000ドル紙幣に採用された。