トップハム・ハット卿
とっぷはむはっときょう
- 汽車のえほんの1巻から9巻までに登場したふとっちょの局長(重役)の事 → 本項で解説
- 汽車のえほんの11巻から26巻までに登場したふとっちょの局長の事 → チャールズ・トップハム・ハット卿2世を参照
- 汽車のえほんの27巻に登場したふとっちょの局長の事 → スティーブン・トップハム・ハット卿3世を参照
- きかんしゃトーマスに登場したトップハム・ハット卿の事 → バートラム・トップハム・ハット卿を参照
もしかして→トップハムハット狂
トップハム・ハット卿は『汽車のえほん』の1巻から9巻までに登場したノース・ウェスタン鉄道の局長(1巻と2巻では重役であった)である。
チャールズ・トップハム・ハット卿2世は息子、スティーブン・トップハム・ハット卿3世は孫である。
データ
所属 | グレート・ウエスタン鉄道スウィンドンワークス → A. W.ドライ社 → ティッドマス・ナップフォード・アンド・エルスブリッジ軽便鉄道 → ティッドマス・ウェルズワース・アンド・サドリー鉄道 → ノース・ウェスタン鉄道 |
---|---|
誕生年 | 1880年 |
逝去年 | 1956年 |
性別 | 男性 |
初登場 | 第1巻3だいの機関車 |
配偶者 | ジェーン・ハット |
ご子息 | バーバラ・ジェーン・ハット チャールズ・トップハム・ハット卿2世 |
他親族 | ハンデル・ブラウン卿1世(義兄) ヘンリー・レガビー(娘婿) スティーブン・トップハム・ハット卿3世(孫) ブリジット・ハット(孫) |
来歴
トップハム・ハットは1880年に誕生しました。
14歳だった1894年にグレート・ウエスタン鉄道のスウィンドンワークスの見習いとなりました。その頃に同じく見習いだったウィリアム・アーサー・スタニエ(William A. Stanier)(後にロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道で蒸気機関車の設計を複数行った人物である)と友情を深めたと言われている。
1901年、ソドー島に来島し、排水の工学に関わるA. W.ドライ社に入社しました。
1905年~1908年にはコーヒーポットと呼ばれる蒸気機関車を4台設計・製造しティッドマス・ナップフォード・アンド・エルスブリッジ軽便鉄道に納入しました。
また1908年には失業していた鉱山労働者に指示する形でティッドマス付近でのトンネルを掘りました。
1910年にはティッドマス・ナップフォード・アンド・エルスブリッジ軽便鉄道のエンジニアになり、同鉄道とウェルズワーズ・アンド・サドリー鉄道が合併してできたティッドマス・ウェルズワース・アンド・サドリー鉄道やさらにソドー・アンド・メインランド鉄道と合併してできたノース・ウェスタン鉄道でも引き続きエンジニアとして勤めました。
1910年、ハンデル・ブラウン卿1世の妹のジェーン・ブラウンと結婚する。
1915年、ソドー島とイギリス本土の間にあるウォルニー海峡を超えるため、ノース・ウェスタン鉄道の鉄道用の可動橋を設計しました。
1920年代前期頃、機関車危機になった時、トップハム・ハットは新しい機関車を導入しました。
1923年、ノース・ウェスタン鉄道のゼネラルマネージャーになります。
1935年、フライング・キッパーの事故の際、事故で損傷したヘンリーをウィリアム・アーサー・スタニエの伝手を使ってクルーの工場で改造を行いました。
1936年、ノース・ウェスタン鉄道の重役になります。
1948年、ノース・ウェスタン鉄道の国有化に従い局長になり、鉄道経営の功績から準男爵位(Sir)を授与される。
1954年、息子のチャールズ・トップハム・ハット卿2世を後任として支持し、後任として決まると局長を引退しました。
1956年、76歳でこの世を去る。
外観・特徴
- 頭の髪は剥げているが、イラストによっては完全に剥げていたり、後頭部に毛が残っていたりと安定しない(レジナルド・ダルビーが描いた絵は設定を間違えたまま描く事が多かったと言われている)が、クライヴ・スポングが描いたイラストでは後頭部に毛が残っている。
- かなり太っている。
- 黒いシルクハットや黒い上着を良く身に着けている。
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