前史
トヨタ自動車自体トラックメーカーとして始まったようなもので、記念すべき1号車は4トン積みトラックのG1型だった。
戦後の1947年に1トン積みトラックを発表した。ライバルの日産自動車やオオタ自動車のものが戦前型の改良に近かったのに対し、こちらは戦後1から開発されたものであり、結果市場からの評判は結構良かった。ただ戦後復興のさなかであり且つ人々の経済状態を考えれば、小回りがきいて値段が安いオート三輪トラックの方が売れており、このトラックは高嶺の花でしか無かった。
だが、この頃のオート三輪トラックは、所詮はオートバイの後輪を2つに増やし、フロントガラスをどうにか付け(、ものによってはとりあえず屋根を付け)たものでしか無かった。これを鑑みたトヨタは、「あのような代物にユーザーは満足はしていない。ならば我々で値段はオート三輪トラックとあまり変わらず、それでいて快適性は桁違いの4輪トラックを作ればよい」と考えた。
そこで、エンジンルームを運転台と同じレイアウトに置いたセミ・キャブオーバースタイルを採用しつつ、それ以外は既存のものを活用して開発した小型トラック「トヨペット・ライトトラックSKB」を1954年9月にデビューさせたのだった。
ちなみに開発を手がけたのは、後にパブリカやカローラの立ち上げに関わった長谷川龍雄である。
ただ、当時の価格で62万5千円と、当時のオート三輪トラックが45万円で買えたことを考えると、かなり高額だった。そこで、「ならば仕方がない、我々の利益が下がってもお客様が買いやすいように値段下げてしまおう」と言うことになり、1956年、55万3千円に値下げしたのだった。そして平行する形で車名の公募を行い、同年7月、「トヨエース」と名付けたのだった。
そして本題
かくして「トヨエース」という名前が付けられたわけだが、オート三輪トラックが、まともなキャブを付けたりステアリングホイール(ハンドル)を丸くしたりしたのは良かったものの、その結果価格が上昇してしまった上、エンジンがオートバイ用エンジンに毛の生えたようなもののままでは、元から自動車用エンジンとして開発されていたものを付けたトヨエースに駆逐されてしまうのは仕方が無かったのかも知れない。かくして、トヨエースはトヨタの看板車種となったのだった。もっとも、トヨタとしては、「本当は乗用車売りたいのに。乗用車でほめられたいのに・・・・・・ブツブツ」というのが本音だった。
その後4代・31年(トヨペット・ライトトラックSKBと名乗っていた時代含め)に渡って製造・販売され、1985年に生産を打ち切った。
以後、同じトヨタのトラックであるダイナのトヨペット店(大阪府では大阪トヨタで取り扱っていた)バージョンと化したあと、1999年5月、トヨタ系のトラックメーカー・日野自動車の2トントラック・デュトロのトヨペット店バージョンとなった。
そして2020年3月31日、トヨタの経営方針変更に伴う車種整理のため、販売を終了、65年にわたる歴史に終止符が打たれた。ただし、東京都に関しては、2019年3月いっぱいで販売を打ち切っている。