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概要(1世)

ヨハン・シュトラウス1世は1804年3月14日にオーストリアウィーンのレオポルトシュタット・フロリアン通りで生まれる。

幼少の頃は面構えから「ムーア人顔」と呼ばれていたが、当人はとても気に入っている様子だったという。

父親は居酒屋を経営していたが、ナポレオン戦争ウィーン会議でオーストリアの財政がひっ迫する中不景気で倒産してしまう。母は病死、父は投身自殺し、身寄りがなくなったヨハンは親戚に引き取られ製本屋に丁稚奉公する。

ある日ヨハンは奉公先を飛び出して、近所に住んでいたポリシャンスキーという人物からヴァイオリンの手ほどきを受け流しの楽士となった。

1819年にミヒャエル・パーマーの楽団に入り、そこで3歳年上の楽団員ヨーゼフ・ランナーと仲良くなる。貧乏だったころは1着のタキシードを共用して演奏会に行ったとされている。

しかし楽団員の給料を使い込んでいたパーマーに我慢ならず、ランナーは独立を決意。ヨハンも共にランナーの楽団に入ったが、パーマーの楽曲が使えなくなったことから揃って音楽理論を勉強、自ら作曲した。

楽団はパーマーの楽団をも上回る絶大な人気を博し、出演依頼が殺到。そこでランナーは楽団を2つに分け、片方をヨハンに任せることにした。すると今度はヨハンの楽団に人気が集中してしまい、ふたりの関係に暗雲が立ち込め始める。

ヨハンは結婚を機に昇給を願い出るが拒否されてしまう。さらにランナーはヨハンの作ったワルツを買い取り自作として公刊したが、そのためにランナーに盗作疑惑が浮上する。

そして1828年にウィーン郊外の舞踏場ボックで演奏を行った際突如として口喧嘩を始め、最終的には譜面やヴァイオリンの弓、太鼓のバチが飛び交う大乱闘になってしまった。

ただしこの大乱闘に関しては目撃証言は存在せず、後年の創作とみる向きもある。

いずれにせよふたりの関係はこじれ、ヨハンは正式に自分の楽団を結成し独立する。

このころふたりはウィーンで絶対的な人気を誇り、1829年にワルシャワから来たショパンはふたりの「ワルツ合戦」の陰に隠れ注目を集めることができず、ウィーンで出版を望んだ自作『華麗なる大円舞曲』を断念することになった。

1831年にふたりは仲直りしたが、かつてのような関係に戻ることはなかった。

ヨハンは西欧で人気を集め、ワルツが冷遇されていたイギリスでもヴィクトリア女王の戴冠式に合わせて演奏会を行い、イギリスでもワルツを認めさせたのは大きな功績のひとつとして挙げられる。

1843年にランナーが死去し、主な舞踏会やコンサートをヨハンが独占するようになる。このころにはウィーンの「劇場新聞」やベルリンの批評家から「ワルツ王」と評されるようになったが、1844年には長男のヨハン・シュトラウス2世が音楽家として活動を開始する。

父の影響を受けて音楽家を志した2世だったが、音楽家の実情を知っているヨハンは反対。総合技術専門学校(現在のウィーン工科大学)に入学させるが、2世は夢をあきらめきれず大学を中退して音楽の勉強を始める。

するとヨハンはあらゆる手段を使って2世の音楽家デビューを妨害。とうとう新聞記者を買収して中傷記事を書かせようとするに至ってしまう。

ランナーの死に伴い「ワルツ合戦」は終焉を迎えたが、ヨハンは息子という新たなライバルを得て同じオペラに基づく楽曲を3曲発表、「カドリーユ対決」と称された。

1846年に宮廷舞踏会音楽監督に召し上げらえるが、1848年に三月革命が勃発。宮廷舞踏会の要職ながらも革命側に与し、『自由行進曲』、『学生連隊行進曲』を発表した。ご丁寧に『自由行進曲』の初版ピアノ譜には「宮廷舞踏会・音楽監督兼指揮者」の肩書を外している。

しかし革命運動が先鋭化されるにつれ、陸軍大臣が殺害され街灯に吊るされるなど活動は過激化。

そこでヨハンはオーストリアの英雄ヨーゼフ・ラデツキー将軍を讃える『ラデツキー行進曲』を発表。

革命側からは裏切り者と呼ばれたが、政府軍の士気は大いに高揚。「ウィーンを革命から救ったのはヨハン・シュトラウスである」とまで称された。

ところが革命の影響でウィーンでは稼ぎが少なくなってしまったころから、演奏旅行で10年ぶりにイギリスを訪れる。

そこで革命によって亡命に追い込まれたメッテルニヒと出会い、彼の前でワルツを指揮した。懐かしさに感激したメッテルニヒは涙ながらに感謝の言葉を述べたという。

しかしこのころには体調不良を訴えており、帰国後に愛人のもとに帰った際に、愛人の子のひとりが猩紅熱にかかっており、衰弱していたためそのまま感染し死亡してしまった。

9月27日にシュテファン大聖堂で聖別式を行い、デブリング墓地のランナーの墓のそばに埋葬された。

ヨハンの死後楽団は2世が引き継ぎ、宮廷舞踏会音楽監督はフィリップ・ファールバッハ1世が引き継いだ。

その後ヨハンとランナーの墓はウィーン中央墓地で改葬され、隣同士で眠っている。

概要(2世)

ヨハン・シュトラウス2世は1825年10月25日、ウィーンの数キロ南にあるザンクト・ウルリッヒに生まれる。

父はヨハン・シュトラウス1世、母は居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイム。婚前妊娠であり妊娠が発覚してから結婚したいわゆるできちゃった婚である。

幼少期は父に厳しく育てられ、時には暴力を振るわれることもあった。そのため親友から少年時代の思い出について触れられた際には「それは、つらい思い出だ」と呟いたという。

それでも父の影響で音楽家を志したが、父は音楽家が浮き草稼業であることから音楽家になることには反発。楽器に触れることも固く禁じたが、唯一市民の教養として日常的に行われていたピアノだけは許された。

ヨハン2世は弟ヨーゼフとともに父のリハーサル場から聞こえる演奏を聴きとりながら連弾し、父の前で演奏したところ「お前たち、誰にも引けを取らないぞ」とフード付きの上等なマントを褒美に与えられたという。

1830年に6歳で36小節のワルツを作曲し、母により『最初の着想』と名付けられる。

ヨハン2世は8歳で自ら貯めた金銭でヴァイオリンを買い、鏡の前で練習していたが、ある日父にこれがバレてしまい、激怒した父にヴァイオリンを叩き壊されてしまう。

やがて父は愛人を作り彼女のもとに入り浸るようになり、妻と子にはまともに生活費を送らなくなった。

母は子供たちの音楽活動を応援し、ヨハンがヴァイオリンを壊されたと知るや新しいヴァイオリンを買い与えた。家庭を顧みなくなった夫への復讐だったともいわれている。

ヨハン2世は技師学校を中退し父の楽団のフランツ・アモンから秘かにヴァイオリンを学ぶが、これを知った父によってアモンは解雇されてしまう。その後は商学部で簿記を学んだが、1842年に退学して教会のオルガン奏者ヨーゼフ・ドレクスラーに師事し和声を中心とする楽典を叩きこまれた。

1844年についにデビューを控えたが、そこにはライバルであるヨーゼフ・ランナーの死後ウィーンのダンス音楽の覇権を握った父が立ちふさがった。

父のあらゆる妨害工作に対抗し、父の息のかかっていない新しい飲食店に徹底的にアピール、埋もれていた若手音楽家を発掘し、提灯記事を書いてくれる新聞社とも契約を結んだ。

当時音楽家になるには20歳でなければならなかったが、まだヨハン2世は18歳であった。そこでヨハン2世は役所にいき、「父親が家庭を顧みないため生活が苦しく、私ひとりで母や弟の面倒を見なければならないのです」と涙ながらに訴えた。これには頑固な役人も首を縦に振り、さらに家族を助ける若き音楽家としての美談がウィーンに広まった。

10月15日に行ったデビューコンサートでは、父と同じくヴァイオリンを演奏しながら指揮を執るスタイルでデビューした。

デビューコンサートは大成功を迎えたが、宣伝のチラシには「ヨハン・シュトラウス」の名が大きく描かれ、コンサートを締めくくったのは父の『ローレライ=ラインの調べ』だった。

この年、ついに母アンナは父に離縁状を叩き付け離婚が成立する。

1846年から1847年にかけて父と同じオペラに基づく楽曲を3曲作り上げた。これらはいずれもカドリーユであることから「カドリーユ対決」と評された。

激突の末親子は和解し、ついには音楽上の協力をするに至った。

1848年革命が起きたときヨハン2世は東欧の演奏旅行に行っていたが、直ちに帰国しシュタイアーマルクから革命の動向を傍観。市民側が優勢と見るや『革命行進曲』、『学生行進曲』、『自由の歌』など革命側の楽曲を作曲、さらには当時オーストリアでは禁制とされていた『ラ・マルセイエーズ』を演奏した。

しかし過激化・先鋭化する革命活動に嫌気がさし、革命が鎮圧されると元の生活に戻ろうとした。

今度は時の皇帝ヨーゼフ・フランツ1世に向けて『皇帝フランツ=ヨーゼフ行進曲』を作曲したが、『ラ・マルセイエーズ』を演奏した一件は重くとうとう警察への出頭を命じられる。

単なる出来心に過ぎないと繰り返し供述し、「もう二度とこのような馬鹿なマネはいたしません」と警察官に誓ったという。

父の死後は父の楽団と自身の楽団に吸収し、楽団は一時200人を超える大所帯となった。親子で分散されていた仕事もすべて集中し、一晩に舞踏場やレストランを5軒も回るハードスケジュールとなったとされる。

父が務めた宮廷舞踏会音楽監督の座はかつて革命活動に関わっていたことから引き継ぐことはできず、フィリップ・ファールバッハ1世に奪われる形となった。

1851年秋にフランツ・ヨーゼフ1世の命名日を祝う式典に乗じ、カドリーユ『万歳!』を発表。これが功を奏したか1852年の謝肉祭で宮廷のダンスの指揮を許される。1853年の皇帝襲撃事件の際には『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』を、皇帝の婚礼には『ミルテの花冠』を作曲し、ハプスブルク家との結びつきを強めていった。

こうして宮廷での活動を受け持つようになったが、宮廷舞踏会音楽監督の座を頂いたのは1863年となった。

しかしあまりの忙しさにもはや再起不能かと思われるほどの重病に倒れてしまう。過労死寸前となったヨハン2世の状況に母アンナは弟ヨーゼフに代役として指揮者を務めさせるのを思いつき、末っ子のエドゥアルトも音楽の道へと引きずり込んだ。

それでもヨハン2世の仕事は多忙を極め、「いつも夜会服を着て暮らす男」とも称された。

1856年にはロシアの鉄道会社と契約を結び、パヴロフスクの駅舎で演奏会を指揮するようになった。

ウィーンでは楽団員への給与支払いにも困ったヨハン2世だったが、ロシアでの仕事を得てからは破格の報酬を得て困窮することはなくなった。

ロシア宮廷では何度も皇室の歓待を受け、戴冠式や祝賀行事にも招待された。

契約金はその後も引き上げられ、1年の約半分をパヴロフスクで暮らす生活を10年ほど続けた。

ところが1870年には母アンナと弟ヨーゼフ、叔母を次々と亡くし、精神的に参ってしまった。

その中で妻や周囲の人間からオペレッタの作曲を勧められ、かつてオッフェンバックからも同じようにオペレッタを勧められていたこともあってオペレッタへの転向を決意。

宮廷舞踏会音楽監督の座を1871年にエドゥアルトに譲り、最初のオペレッタ『インディゴと40人の盗賊』を手掛ける。台本の評価はあまりよくなかったが音楽性と舞台の華やかさ、晴れやかな踊りが評価され成功を収めた。

当初は大きく後れを取ったが次第にオッフェンバックをもしのぐオペレッタ作曲家となった一方、台本選びは苦手だったといわれ今日まで上演される作品は少ないとされる。

1872年6月17日にアメリカボストンで開催される独立100周年の祝典を兼ねた世界平和記念祭および国際音楽祭の指揮者として招待される。

大の旅行嫌いだったため船に乗らなければならないアメリカ行きは気乗りしなかったが、妻に説得され遺言状をしたためてアメリカへ向かった。

アメリカでの演奏は大成功をおさめたが、当人は「馬鹿げた音楽の聴衆」を軽蔑していたという。

1894年にはデビュー50周年を祝う祝賀行事がウィーンの各地で開催され、「ウィーン音楽が演奏される酒場において、祝われるべき人に思いをはせなかったところはひとつもない」とも評された。

晩年に至っても若々しい姿を保っているように見られたが、実際には髪を染め髭はポマード、肌は紅で整え背筋も燕尾服の下のコルセットで伸ばしている状態であった。

死期を悟ったか作品番号が付けられた最後の作品『ライムント時代の調べ』は生涯を回想するかのような作品になった。

グスタフ・マーラーから『シンデレラ』を題材にしたバレエ曲を委嘱されたが、1899年5月に肺炎と診断される。作曲活動は病を押して続けたが、未完のまま6月3日に死去した。

死後1904年に記念像を建立する動きが高まり、募金も始められたが、その中でサラエボ事件が起こり活動も挫折を余儀なくされた。「ヨハン・シュトラウスとともにハプスブルク帝国も死んだ」と評されることもある。

代表曲

ワルツ『朝の新聞

ワルツ『美しく青きドナウ

ワルツ『芸術家の生活

ワルツ『ウィーンの森の物語

ワルツ『酒、女、歌

ワルツ『千夜一夜物語

ワルツ『ウィーン気質

ワルツ『南国のバラ

ワルツ『春の声

ワルツ『皇帝円舞曲

ポルカ『アンネン・ポルカ

ポルカ『トリッチ・トラッチ・ポルカ

ポルカ『観光列車

ポルカ『浮気心

ポルカ『ハンガリー万歳!

ポルカ『新ピチカート・ポルカ

オペレッタ『こうもり

オペレッタ『ヴェネツィアの一夜

オペレッタ『ジプシー男爵

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  • 『皇帝円舞曲』の謎

    昨夜(2016年1月1日)放送のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートを見て、今年はフランツ=ヨーゼフ1世の没後100年にあたると知りました。 それを記念して(?)、ヨハン・シュトラウスの『皇帝円舞曲』について書いたレポートを投稿します。 そう言えば、最近はヨハン・シュトラウス2世の「2世」は付けないようですね。 そして同名の彼のお父さんはヨハン・シュトラウス(父)と表現するようになったようで。 放送を見ていて、変な所に時代の変化を感じてしまいました。

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