立地
岐阜県中津川市の旧国鉄中津川駅に隣接して所在し、中央本線および明知線(現在の明知鉄道線)の蒸気機関車基地として機能した。
中央本線の岐阜県駅としてはほぼ東端(最東端は2つ先の坂下駅である)で、かつ名古屋鉄道管理局側(当時。JR東海への民営化直前に管理替えがあり、塩尻を出てすぐ名古屋局管轄になった)でも中央本線機関区としては東端であるが、ここに所在したのには合理的な理由がある。
名古屋駅から80km、多治見駅から50kmで、距離の点で機関車の交代その他拠点が必要な地点である。多治見以東からところどころ急坂があるがここからは先はほぼ片勾配の木曽路であり、それを乗り切るのには手前に機関車基地を設置しなければならない。ここより東の2駅では平地が少なく、ある程度の両数を扱う機関区を置くことが地形的に難しいという事情がある。
昭和34(1959)年頃において、総数で25両、明知線用を兼ねた4両のC12以外は全てD51である。より山あいにある木曽福島機関区では総数は11両に限られており、それ以上に平地の少ない東2駅では中津川区のような規模の機関区は置きようがないことが分かる(そもそも隣の落合川駅はダムの際で、その次の坂下駅の横手の今現在存在する更地もかつては林業関係の貯木場だった)。
列車の種類・速度によるが、中央本線については概ね旅客用は受け持ちが名古屋~塩尻であったようだ。
所属車両
B6(2100・2120・2400などのどれか)、9600、D50、D51、C12(明知線及び入れ替えや補助がメイン)
機関区ごとで番号板の地色を変える名古屋鉄道管理局では、当区配置車は青(セルリアンブルーに近い色)。見慣れないとかなり違和感を感じる。
B6~D51はいずれも当時の山岳線用機関車としては標準的なもので、D51は最高速度目一杯で準急列車(今の「しなの」の前身)なども牽いていた。
やんちゃすぎるエピソード
木曽路(長野鉄道管理局管内だが)のあまりに過酷な条件下での運転を担当する区の1つであったため(相方は木曽福島機関区)、庫内手(整備士)や機関助士(釜焚き)から機関士まで全員猛者揃いになってしまっており、武勇伝には事欠かない。
- 他線区のこれまた難所の助勤に出張しても、難なくこなす
- ディーゼル化が始まる頃まで他区所のような「甲組」がなかったらしい。全員猛者で区別の必要がなかったから。
- ボイラー溶け栓の緩みによるチョロチョロとした漏水を、溶け栓の芯にリベットを火室側から打ち込んで止めてしまった(爆発防止装置として機能しなくなるため法的に禁止されているはずだが、「空焚きしなきゃいいんだろ」というノリでやったらしい・・工場からお灸をすえられ1回きりらしいが)
1965年あたりまでは修繕工場が浜松だったというのもこの武勇伝を支えたことは想像に難くない。外観はごく普通ながら山中の運転で命綱な蒸気圧の上がりが良いよう、標準仕様からアレンジしたノズルのセッティングなど、特殊な仕様をいろいろ仕組んだ車両になっていた。
その後長野へ修繕工場が持ち替えになると同時に、ここ所属のD51に集煙装置が載るようになる。
電化されると、そもそも機関車(電気機関車)牽引でもたかだか80kmで機関車を替える必要はないため、機関車の配置はなくなった。現在は中津川運輸区に改組され、駅北側に夜間留置のための電留線が多数敷かれているのが車両基地であった時代の名残ではあるが、電車等を含め配置車両数はゼロである。