概要
占守型は元々北洋での活動を念頭に設計されただけに、大戦中も北の海で活動するケースが多かったが(例えば、アリューシャン攻略作戦やキスカ島撤退作戦に参加した国後など)、占守だけはなぜか南方での活動が長かった。
緒戦の占守はマレー半島上陸戦を皮切りに、輸送・上陸作戦や輸送船団護衛、機雷掃海、果ては遭難者救助と、多岐にわたる活躍を見せた。
南方作戦が一段落した後は船団護衛や対潜掃討の任務に就くが、元々ソナーを装備せず(昭和18年に追加)爆雷の搭載数が少ないなど対潜戦には不向きな設計でもあり、アメリカ海軍の潜水艦の攻勢が激化すると苦戦する場面もたびたびだった。昭和19年2月には、護衛についていたヒ40船団が襲撃され、タンカー6隻中5隻を沈められた末に、本土にたどり着けぬまま「途中解散」という憂き目にも遭っている。もっとも、この時の護衛は占守ただ1隻でしかなく、とても守り切れる話ではなかったのだが……(当時は護衛艦艇の不足が甚だしく、“裸船団”も珍しくなかった)
占守はなぜか輸送作戦に駆り出される例も多く、昭和19年10~11月、攻守所を変えたフィリピン戦では多号作戦(第2次、4次)に出動、第4次作戦では不足していた大発の代わりに兵員の揚陸にも手を貸した。
その後のマニラ湾空襲で多くの僚艦が斃れる中、占守はどうにか生き延びたものの、11月25日、マニラ湾南方で潜水艦“ハッド”(USS Haddo, SS-255;佐渡、朝風を沈めた艦と同一)から雷撃され、艦首を大きく損傷してしまう。
応急修理の後、日本本土へと戻った占守は、昭和20年、舞鶴で本格的な復旧工事を受ける。日振型、鵜来型に似た簡素な直線基調の艦首に交換され、煙突も択捉型と同様の楕円形断面に改められた。対空機銃も増設され、この頃までに順次強化されたマストや電探などと相まって、すっかり実戦的な“艟(いくさぶね)”へと変貌していた。外見からはわからないが、爆雷も60個まで増載されている。
4月、復帰した占守は大湊に移動。新編された第百四戦隊に加わる。この第百四戦隊は当時としては珍しい甲型海防艦のみ6隻で編成された戦隊で、占守型の生き残り3隻と、準同型の択捉型3隻(択捉、福江、笠戸)で構成されていた。北方での活動が予定されていたので、耐寒・耐氷装備や居住区設備が省略・簡略化された旧・乙型(御蔵型)以降の海防艦では厳しいと判断されたのかもしれない。
ここに至って、ようやく占守は本分の“北の海”に戻ってこれたのである。文字通り水の合う活躍の場と、気の合う仲間(姉妹)を得て、短いながらももっとも充実した時期だったのかもしれない。
北海道方面で活動していた占守は、終戦後は樺太から避難する邦人の輸送、さらに特別輸送艦として復員輸送と、最後の輸送任務に携わる。
昭和22年7月、賠償艦としてソ連に引き渡され、平和な海なら“漁場保護”で対峙しているはずだった国境の向こう側へと旅立っていった。ソ連海軍では護衛艦・EK-31、通報艦・PS-25、工作艦・PM-74と、たびたび艦種と艦名を変えた後、1959年(昭和34年)に退役。数奇な生涯を終えた。