代表的な人物
アントニオ猪木
ご存知燃える闘魂としてその名を知らぬ者はいない国民的プロレススターである。彼の名台詞である元気があればなんでも出来るというフレーズはその名の通り世の若者世代を中心に元気付ける言葉で喝采を浴び昭和のプロレス時代を築き上げたプロレス界の神である。そして、引退試合の際に捧げた伝説の1、2、3、ダー!という締め台詞も有名となり、それを真似する芸人らが数多く現れる程だった。さらに猪木は政治家としても活動しており、1989年に参議院議員選挙に立候補し当選。議員初当選の頃から北朝鮮に度々訪問していて、朝鮮労働党幹部と太いパイプを持っている。その後は日本維新の会からも立候補し国政に参加。また湾岸戦争時代は直接戦地に出向き、猪木氏の声に応じたミュージシャンやスポーツ選手がイラクのバグダードでイベントを開催、イラク政府にも熱意か通じたのか日本人の人質40人余りを解放までに導いた実績を持っている。晩年は難病指定にされている「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」を発症し日に日に体力は衰え、衰弱し、遂には車椅子なしでの移動すら困難になっていった。そして2022年、心不全により自宅で80年の生涯を静かに閉じた。
ジャイアント馬場
同じく猪木とともに昭和のプロレス時代を築き上げたプロレス界の大巨人とも言える。元々は読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手だったが、208センチという超長身を誇ったが制球難に悩まされ活躍出来なかった。後に大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)のテストを受験するがケガで引退。その後、力道山のスカウトからプロレスラーに転向しプロレスデビュー。その恵体とその強さから「東洋の巨人」の異名を取る一方、温厚な人柄で多くの人に慕われ、親しまれた。得意技は長身を活かした十六文キックであり、全盛期ではこの技でフォールを奪えるほどの威力を誇った。そしてジャイアント・バックブリーカーという馬場オリジナルの技も生み出し彼亡き今もその技を披露するレスラーは数多く存在する。晩年は肝不全を患いながらも現役を活動し続けたが、1999年、大腸癌により死去。
橋本真也
破壊王としてその名を知らしめたプロレス界の革命戦士。闘魂三銃士として武藤敬司、蝶野正洋と共に活躍し数多くのタイトルを総なめに獲得。その後は新日本プロレスを脱退し、「新日本プロレスリングZERO one」を旗揚げし独立。そして、橋本はZERO-ONE勢を率いて武藤率いる全日本プロレスに乗り込み、全面抗争が勃発。頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠ヘビー級選手権に勝利した。さらに後楽園ホールでは最多記録となる2,300人の観衆を集めて小川と組み武藤・小島聡組と対戦して勝利し三冠王ベルトを返上しチャンピオンに返り咲いた。しかし2004年、大谷晋二郎&大森隆男組を相手に行い、試合に敗れて王座を陥落する。この試合を最後に怪我や故障などがあって長期欠場に入るが、この支障を期に団体の経営方針等、諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONEは経営破綻。を負債は全て橋本が自ら被ることになった。その後は一人でフリーの道を歩むことなった橋本は、長い間治療せず放置していた右肩を手術しリハビリをしながらリングへの復帰を目指していた。だが2005年、橋本は横浜市内の療養先において急死。死因は睡眠時無呼吸症候群に伴う脳幹出血であった。40歳という早すぎる死にプロレス界は騒然となり、特に闘魂三銃士時代に絆を深く持つ武藤と蝶野が受けた衝撃は計り知れない程大きく、武藤は葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野は人目をはばからず涙に暮れるなどした。
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