概要
南京都高校、専修大学商学部卒業。帝拳ボクシングジム所属(現役当時)。
マネジメントは株式会社コモンズ2所属。
入場曲は『龍馬伝』のテーマ曲(佐藤直紀作曲)。
来歴
アマチュア時代は決して目立った実績を残したわけではないが、プロでは12度にわたる世界王座防衛を成し遂げた左のハードパンチャーとして名をはせた。上記の通り元々オーソドックスであったもののサウスポーに変更したがコンバッテットサウスポー(右利きのサウスポー)ではなく、元々左利きでありナチュラルなサウスポー。
その破壊力あふれる左ストレートは多くの選手をなぎ倒してきた一方、その左を封じられると攻め手がなくなり結果として後述するモレノ戦では苦戦を強いられた。また、決してディフェンスが上手いボクサーでなかったため被弾を食らいダウンを喫するシーンがたまたま見られた
アマチュア時代
辰𠮷𠀋一郎がシリモンコン・シンワンチャーをKOで下してWBC世界バンタム級王座を奪還した試合を見て辰𠮷に憧れ、南京都高校(現:京都廣学館高等学校)入学後にボクシングを始める。
高校時代に、当初はオーソドックスであったが、顧問の指導によりサウスポーに転向。
国体での少年バンタム級で優勝、またインターハイ2位の実績を持つ。
また李冽理(後のWBA世界スーパーバンタム級王者)、粟生隆寛(後のWBC世界フェザー級・スーパーフェザー級の2階級王者、プロでは同門に。)と対戦したこともある。
因みに村田諒太(ロンドンオリンピックボクシングミドル級金メダリスト、現:WBA世界ミドル級王者)、久保隼(後のWBA世界スーパーバンタム級王者)は高校の後輩にあたる。
専修大学進学後はボクシング部の主将を務めた。
ボクシングは卒業と同時に辞めるつもりが大学4年生時の国体で不本意な成績に終わったことからプロ入りを決意、帝拳ボクシングジムに入門。
プロ入り後から世界王者獲得まで
2006年1月7日、東京都文京区の後楽園ホールでの高橋仁(角海老宝石)戦でプロデビュー。以後、13戦11勝2引き分けと好成績を挙げる
2010年6月20日、日本バンタム級王者安田幹男(六島)に挑戦し、7回TKOで下して王座を獲得。(1試合ノンタイトル戦を挟み1度防衛。防衛戦の相手はのちのIBF世界スーパーバンタム級王者・岩佐亮佑。)
2011年11月6日、17戦目で世界初挑戦。国立代々木競技場第二体育館で元WBC世界バンタム級シルバー王者でWBC世界バンタム級2位クリスチャン・エスキベル(メキシコ)とWBC世界バンタム級王座決定戦を争う。
(当初はエスキベルが指名挑戦者で、再度、同級次期挑戦者決定戦として開催される予定だった。しかし当時のチャンピオン、ノニト・ドネア(フィリピン)が王座獲得後、9ヶ月経過しても指名試合を行っていないという理由で王者を剥奪され、試合2日前になって急遽、王座決定戦に変更。こちらについては批判も極めて多い)。
試合は中盤に両者ダウンを奪い合う一進一退の攻防から主導権を奪うと第11ラウンドに猛攻を仕掛け、1分28秒TKO勝ち、王者獲得。
世界王者獲得後
2012年4月6日、東京国際フォーラムにおいてWBC世界バンタム級4位で元世界2階級制覇王者ビック・ダルチニアン(オーストラリア)と対戦しアウトボクシングで翻弄、3-0の判定勝利。
その後も、
元WBC世界スーパーフライ級王者トマス・ロハス(メキシコ)
元WBC世界フライ級王者マルコム・ツニャカオ(フィリピン)
元WBC世界スーパーフライ級王者スリヤン・ソー・ルンヴィサイ(タイ)
元WBA世界バンタム級スーパー王者アンセルモ・モレノ(パナマ)
元WBA世界スーパーフライ級王者リボリオ・ソリス(ベネズエラ)
等の強豪から勝利をおさめる。
なお、リボリオ・ソリスは山中との対戦で来日した際に、「YOUは何しに日本へ?」の直撃取材を成田空港で偶然受けている。
その一方で…
各国の強豪と戦ったことへの評価は極めて高い一方で、果たして山中慎介は想像以上に強かったか?と言われると疑問点が残ることも多いボクサーだった。
かつて世界王者に輝いたダルチニアンが世界のベルトを腰に巻いたのは2010年が最後。また、本来のベスト階級がフライ級とスーパーフライ級だったことを考えても衰えと体重増加に感じる劣化は明らかであった。
またツニャカオもベルトに腰をまいたのは2000年と世界王座を手放してから13年以上経過していた。明らかに全盛期を過ぎた選手との戦いでネームバリューを上げたことは言うまでもないが、強豪と呼ぶにはいささかの疑問点が残る。
ロハスとの防衛戦の際には八百長疑惑について告発したが証言を拒否し直近までWBCの試合出場停止処分を受けていた。つまりブランクがあったという事でもある。
他にも、体重超過という大失態を犯し亀田一家との騒動を巻き起こす発端を作ったソリス。
現にソリス戦ではダウンを喫し、モレノとは2度戦ったが1度目は「ホームタウンデシジョン(地元有利判定)で何とか勝利した」とも言えなくもない結果に終わった。
と「強豪と言えば強豪だが、ネームバリューだけに富んだ選手と戦っただけに過ぎない」とも読め、防衛回数こそ日本歴代2位の記録を持つ一方で井上尚弥のような圧倒的な実力はなかったとも見て取れる。
ルイス・ネリとの2戦から現役引退まで
2017年8月15日、京都でWBC世界バンタム級1位のルイス・ネリ(メキシコ)と対戦し、プロ初黒星となる4回2分29秒TKO負けを喫しWBC世界バンタム級王座の13度目の防衛に失敗。具志堅用高の持つ記録にあと一歩届かず12度防衛(うち8回KO勝利)で終わる。
しかし8月23日にドーピング検査で、ネリの検体からクレンブテロールに非常に酷似した禁止薬物のジルパテロールに対する陽性反応が出たと通知されたが、過去にドーピング違反歴がなく、故意に摂取した確証が得られないとしてWBCはネリを不問としネリを処分せず10月31日付けでダイレクトリマッチ(直接の再戦)の交渉を行うように指令を出した。
2018年3月1日、ネリーとの再戦だったが、前日計量でネリがバンタム級の規定体重である118ポンドを3ポンド超過の121ポンドを計測し試合前に王座剥奪。
山中が勝てば王座返り咲きだったが山中が2回1分3秒TKO負けを喫した。試合後、山中は現役引退を表明。
余談(トランクスの『人名』)
ボクシングのトランクスに『辻昌建』『上西孝幸』の名前を入れている。
- 『辻昌建』は2009年3月21日の日本ミニマム級王座決定戦で壮絶な打ち合いからKO負け、そのまま硬膜下血腫(リング禍)により30歳で死んだ帝拳の先輩ボクサーで世界初挑戦時から入れている。(その時の対戦相手・金光佑治も勝利し王座獲得したものの硬膜下血腫で手術して引退、競艇選手を経て現在は大阪府堺市にてリラクゼーションサロンを経営。2020年5月18日にはNHKのドキュメント番組『【ストーリーズ】事件の涙「拳の記憶~あるリング死と向き合った11年~」』が放送された。)
- 『上西孝幸』は幼少の頃から山中選手を支え、後援会副会長を務めた人物で2013年2月死去、享年54歳。ツニャカオとの3度目の防衛戦から入れている。