曖昧さ回避
妖怪の川熊
江戸時代後期の博物学者・菅江真澄によって著された『月乃出羽路』に記述がある熊のような妖怪。
秋田県の雄物川で殿さま(佐竹義宣)が鷹狩りをしていると、川からのびてきた真っ黒な毛におおわれた手に鉄砲を奪われてしまったために、家臣一同必死に取り戻そうと苦心することとなった。
なんとか家来の一人が洪福寺淵という場所に潜って鉄砲を取り戻すことができ(萩台村の六兵衛が見つけたが翌年同じ場所で溺死したとの伝承もある)、その鉄砲は川熊の鉄砲または川熊の御筒と呼ばれるようになったという。
別な伝承では船頭が岸に船をつけたところ、船の縁に大きな猫のような手が掛けられた。
船頭は驚いて鉈でこの手を斬り落として持ち帰り、その後は下流の河辺郡川添村椿川(現秋田市雄和)に祀られていたという。
近代になり大仙市協和にある淀川の土淵で、筏が突然座礁したようだったので二人組の筏乗りが川熊の仕業だと鉈を用意した。
すると水中の盛り上がりが引っ込んだので、こういう時には川熊だったら小手先が利かないので、大蛇の仕業であることがわかったのだという。
またこの土淵に岩に括り付けたダイナマイトを30発ほど投げ込んだところ、水中では不発で全て浮き上がってきてから爆発したのだという。
類似した伝承
文政10年(1827年)には岐阜県の中津川で、鼠色で光沢がある謎の獣が捕えられ名古屋で見世物にされたという。
この獣は川で捕えられたことから水の力を持つと畏れられ、雨を呼ばないように敢えて猪熊(いのくま)と名付けられた。
長野県から新潟県にかけて流れる信濃川では、堤を切り大水をもたらす河熊というものがいると伝わる。
石川県の手取川では宝暦6年から8年(1756~1758年)にかけて洪水が起こったが、本来はめったに堤が切れないような穏やかな川であり、水熊という中国の水神天呉と同様なものの仕業であるとされた。
福島県の信達地方はかつては大きな湖だったが、主の大蛇を玄熊、大玄熊と呼ばれる水熊が追い出したため、もしくは周囲を荒らし回った水熊を日本武尊が退治したために湖水が無くなり陸地となった。
創作での扱い
- 水木しげる作品:妖怪図鑑で鰭を持つ奇妙な獣の妖怪画が描かれ上記の伝承が紹介された。