曖昧さ回避
- 宝暦から明和に書かれたといわれる奇談集『三州奇談』巻之二「水嶋水獣」に記述がある水妖。※この項で解説
- 陸奥国信達地方(福島県福島市周辺)の伝承に登場する湖の主である水妖。※この項で解説
- 1930年に発表された長谷川伸の戯曲『瞼の母』の舞台である柳橋の料理茶屋。
- pixivユーザーでもあるイラストレーター。バッチ(アズールレーン)やHS2000(ドールズフロントライン)、Ameli(ドールズフロントライン)などの担当絵師でもある。
水妖の水熊
加賀の水熊
宝暦6年から8年(1756~1758年)にかけて、加賀の手取川が氾濫したことによって堤が決壊して多くの集落が水没するなどの被害に遭った。
その中でも本吉という集落は、小高いところにあったために浸水こそは免れたが、周囲から孤立してしまい復旧のために村人たちは駆けずり回っていた。
そんなときに中島という場所の中川堤に何かが浮かび上がってきた。
一部分だけが水面から見えており、溺れて死んだ牛の背、朽ちた大木、苔むした岩などいろいろな意見があり、泳ぎが得意な者が近づいてみると黒い皮に包まれ、頭や目のようなものが無く枝のようなものが2~3本生えているのみの謎の物体だった。
村人たちが鍬を打ち込んでみたり、竹で叩いてみたものの傷一つ付くことがなく、何の反応もなかったことから生き物ではないと思っていたところ、川上から椰子の実が流れてきた。
するとその物体は枝に見えた腕を動かして椰子の実をつかむと、目も口もない顔のような場所に押し当ててゴクゴクと果汁を吸い尽くしてしまったのである。
それを見た村人たちは恐れおののき、鍬では歯が立たないと藁や草に火を付けて押しつけ焼き殺そうとしたのであった。
油の焼けたような臭いがしてきた場所を鍬で叩いたところ、そこが破けて黒い血が流れ出したが、その直後に轟音と共に大波が押し寄せてきて洪水となり、謎の物体とともに集落は流されて、その地域一帯は淵となってしまった。
生き延びた人々は、めったに氾濫しない手取川が荒れたのも、この水妖の仕業であったのだと噂した。
識者によるとあれは唐土に伝わる天呉と呼ばれる、よく堤を破るという目鼻が無い水神であり、それを知った村人たちは神仏にすがるべく、百日間にわたり毎朝、観音経を唱えたのである。
すると、夜の闇のなかをうっすらと光る黒い物が川上に向かって泳いでいくのが見えて、徐々に水が引いたのだった。
創作での扱い
- 地獄先生ぬ~べ~:#111「U・M・Aの巻」において童守川に打ち上げられた謎の物体の正体とは…
陸奥の水熊
大玄熊、玄熊とも呼ばれる。
『信達民譚集』によると、現在福島盆地といわれる信達地方(岩代国信夫郡・伊達郡)は太古の昔は湖であり、大蛇が主として棲んでいた。
しかし水熊との争いに敗れて東方の山に逃れたので、この地の湖水はそれとともに流れ出でて陸地となったのだという。
なおこの大蛇は、旧飯坂町茂庭の伝承では七つ頭の大蛇であり、祟り神として人身御供が捧げられていたが、牡牛を思わせる水熊と七日七晩噛み合い破れたとされる。
信達湖の主となった水熊は、周囲を荒らしまわり人畜を害したために、官女たちが舟の上で管弦を鳴らして湖底からおびき寄せることで、東征の帰途にあった日本武尊によって矢で射殺されたが、三日間も雷鳴が止まらなかったと伝わる。
その水熊が死んだ場所が伏拝村にある雷電沢であるのだという。
『国見町史』によると、日本武尊の指揮で猿跳山を掘削して水路を通し、湖水を抜くことで大玄熊の居場所をあぶり出し、炎を吐いて襲いかかってきたところを、脳天を狙って射殺したと伝わる。
すっかり水が抜けた湖は川となり、この故事から逢隈川(阿武隈川)と呼ばれるようになった。