概要
1894年2月20日に埼玉県で生まれ、1902年に東京へ転居。高等小学校卒業後、牛乳配達、新聞配達、土工など様々な仕事に就き、1914年に帝劇歌劇部へ入団してオペラの歌唱法やダンスを学ぶ。当時舞踏家を目指していたが、帝劇洋劇部の解散でその夢を諦めなければならなくなり、小さな劇団を転々とした。
1935年、佐々木千里に誘われてムーランルージュ新宿座へ入り、この時から左卜全の名前で喜劇俳優としての道を歩み始める。その活躍が松竹の目に止まり、同社の移動演劇隊へ入団する。
戦後は太泉映画所属を経てフリーとなり、老け役の名手として活躍。1970年には老人と子供のポルカで歌手デビューを果たしたがこの時76歳。史上最高齢の歌手デビューと話題になった。
また、私生活では1946年に木暮糸という女性と結婚している。糸は付き人代わりに卜全を支え続けた。
1971年5月26日、癌のため77歳で死去。
変人エピソード
劇中で根っからの変人を自然体で演じられることで人気となったが、実生活でも変人エピソードが数々残る。
楽屋には摘んできた薬草が干されており、五種の野草を煎じた不老長寿の霊薬が入っているという水筒を首から提げて撮影所に入り、撮影に望んでいた。一度俳優の土屋嘉男が水筒の中身を飲んでみたところ、ただのコーヒーであった。
服も基本的に着たきりで、滅多に新調しなかった。更に突拍子もない服装で出歩くこともあったという。
歌手として
オペラ歌手としての歌唱法を学んでいたこともあって、歌の素養が全く無い訳ではなかったのだが、「老人と子供のポルカ」収録の際には、「機械人間ではないので言われた通りには歌えない」と我流を通し、歌い方が遅かったために演奏やひまわりキティーズの歌声と全然噛み合わず、収録が終わるまでに6時間かかった。
テレビ中継や収録で曲を披露する時も口パクを嫌って地声で歌っていたが、演奏と歌が噛み合わず演出指導者が指導しようとしても「機械の方で俺に合わせろ!」と啖呵を切ってマイペースに歌っていた。
それでも歌い終わるとスタッフ全員に労いの言葉をかけて帰っていったという。
脱疽と共に生きる…
実は左卜全を名乗りはじめた頃、左足に激しい痛みを覚えるようになった。医者に診てもらったところ、突発性脱疽と診断されてしまう。医者からは「左足は切断した方がいい」と言われてしまうが、「そんな事をしたら芝居が出来なくなる」、と、あえて痛みを抱えて生きる決断をした。以後、プライベートでは松葉杖を使う事を余儀なくされた。
ただその一方で障害者手帳を携帯しなかったため、日頃の変人振りもあり、「あいつは身体障害者の振りをしている」と陰口をたたかれる事もあった。だが本人は「あれで俺は助かってるんだよ。役者が病気を抱えている事知られた上で同情を買う様な事になったらそれこそ終りさ」と、気にしてはいなかった。
その他
東急電鉄世田谷線沿線にある若林という町に、「プレステージ・レフト」という名のアパートが存在するが、これは、そのアパートが存在する場所に、晩年の卜全が住んでいた家があった事にちなんでのものであり、そこには卜全をたたえるプレートと、彼の言葉が刻まれた石碑が設置されている。