生涯
延徳4年(1492年)~天文22年(1553年)
織田信秀に仕える重臣の一人。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌にもう通じた文化人で、特に短歌の腕前はその道のプロである公家からも絶賛されたこともあったほど。
朝廷工作のために信秀の名代として上洛したこともあり、1542年の災害以来損傷したまま放置されていた御所の修繕費4000貫の献金、信秀の「三河守」叙任などで活躍した。
天文3年(1534年)、織田信長が誕生し傅役となって次席家老も務め、 信長の後見人や教育係として元服や初陣、婚儀まで面倒を見た。
天文17年(1548年)、織田家と対立していた美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めた。
間違いなく当時の織田家の柱石を担っていた重臣の一人で、機転を利かせて命令された以上の成果を挙げられる有能さを持ち、斎藤道三からも油断ならない相手の一人と見做されていた。
信秀が急死し混乱が家中で続く中で、天文22年(1553年)に自刃した。享年62歳。
自刃の理由ははっきりせず、信長の奇行を諌めるためであったというのが有名。他にも信長と織田家中の政争のためや、他の重臣との権力争いのためとも諸説ある。
信長は政秀の菩提を弔うため沢彦宗恩による開山で「政秀寺(せいしゅうじ)」を建立した。
なお、その後の平手氏は嫡男・久秀が長島一向一揆討伐戦で、次子(または孫)・汎秀が三方ヶ原の戦いで戦死するなど、主だった者たちの死により嫡流は断絶している。