概要
もっと具体的に書くと東宝が“東宝設立50周年”を記念して製作・公開した映画である。
公開年は1982年9月11日。
監督および脚本を担当したのはあの黒澤明の映画にも参加した当時の有名脚本家である橋本忍。更に莫大な予算と制作期間をかけて作られた上映時間2時間半以上のまさに東宝渾身の意欲作であった。
・・・のだが、その内容はと言うと“ネオ・サスペンス”なる聞き慣れないコンセプトによって作られた意味不明で理解不能なシナリオ、唐突かつ不自然な場面転換、どう考えても無理のある各種設定、全体的にチープな感じの演出が全編を埋め尽くしている文字通りのトンデモ怪作だった。
そんなわけで公開後もほとんど客足が伸びず映画はほんの数週間で全て打ち切られたとされ、この失敗により橋本の名声も地に落ちたと言われている(後に橋本も「この映画は失敗だった」と認めている)。
日本映画史上でも屈指の問題作だったことから公開後もほぼ封印作品扱いでソフト化はされていなかった。しかしそのぶっ飛びぶりが一部の好事家の間で話題になっており、それを受けてか2003年にDVD化された。そして、何をトチ狂ったのか東宝創立90周年+公開40周年記念を機に2022年にBD化されるに至った。おいおい…。
主なシナリオ・演出のツッコミ所
- そもそものストーリーが“愛犬を殺された風俗嬢の復讐劇”
- 復讐方法は日々のジョギングで鍛えた脚を使って相手をマラソンで追い詰め、疲れ切った相手を刺し殺すというもの
- 主人公の仕事仲間の一人が日本の風俗を調べに来たという米国の諜報員
- 別に主人公と直接的な関係があるわけでもないのに物語が戦国時代にジャンプ
- ラストはこれまた主人公とはほぼ関係ない宇宙空間で〆
撮影までの経緯
そもそもこの作品が世に出ることになったのかというと、橋本が脚本・制作を務めた『八甲田山』のロケ現場で、橋本がブナの木に話しかけた際にある一枚の絵が脳裏に浮かんだことに始まる。
その絵は「日本髪を振りみだした若い女が、出刃包丁を構え、体ごと男へぶつかっている」という
もので、女は縄文期から過去・現在・未来へ転生し続けているという設定だった。その後、橋本は今度はタイプライターに思いを巡らせ、従来の電動式のものからLSIを用いたものに代わっていくと構想し、更には琵琶湖畔で弥勒菩薩像を見物する。
結果、橋本は「LSI、十一面観音の菩薩像、出刃包丁を構えた女」の三つを組み合わせた話を企画し始め、そして2年をかけて最終的な脚本が書き上げられた。わけがわからないよ。
何でこんな映画になってしまったの?
本作は、プロデューサー・監督・脚本・編集・原作すべてが橋本に手による作品であり、いわば橋本が「製作総指揮」とも言える立場にあったが、それにより集団作業によるブラッシュアップの機会や、無謀なアイディアを止めるチェック機能を欠いてしまったことが最大の要因であると言える。
例えば、本来は橋本は忠臣蔵を「老人一人相手に47人がかりで殺す話にすぎない」と考え、仇討ちに否定的な人間であったが、溺愛していた愛犬を亡くしており、あまりの溺愛ぶりからか「もし愛犬を殺されたら復習をする」と家族に話し、家族から呆れられたという。
こうした独善的な考えを誰も止められずに、脚本の執筆に至ったが、実は橋本すら脚本に自信を持てなかったのだという。
そのような事態に陥り、撮影中止も考えていたらしいが、結局悩むうちに準備が進んでしまったため、撮影に入らざるを得なかったという。
まあ、結果出来上がったのは、
- 「生命をもたない映画、死体のごとき映画であり、要するにどうしようもない愚作である」(山根貞男(映画評論家))
と酷評される代物だったので、悩まずにその時点でばっさりと切り捨てられていれば、もっと違った結果になったのかもしれない。
このような有様で撮影された作品であったため、現場は見事にデスマーチ化してしまっており、その事も映画の出来に悪影響を及ぼした可能性は否定できない。