曖昧さ回避
概要
1973年12月10日発売。
作詞・武田鉄矢
作曲・海援隊
前作「恋挽歌」から約4か月ぶりのシングルで、A面はアルバム『望郷篇』に収録されていたものとはアレンジが異なり、シングル用に新たに録音されている。
今作で翌年の『第16回日本レコード大賞』で企画賞を受賞し、同じく翌年の『第25回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。
オリコンチャート最高位10位を獲得。自身初のトップ10入りを果たした。
2007年に発売されたエレックシングルボックスでは母にささげるバラードもアルバム音源が収録されている。
上京したものの売れなかったため、武田が母親に宛てるフォークソングの詫び状をコンセプトに書いた楽曲。
エピソード
幻の映画化
1974年にジャーナリストの竹中労が、鈴木清順監督に映画が撮れるようと東映に橋渡しし、鈴木の映画復帰作として東映で映画化を予定されたことがある。内容は吉原のソープランドが舞台で、偏屈な江戸っ子が主人公と、曲のイメージとはかけ離れているが、脚本は佐々木守と東映の内藤誠の共作、主演は岡田裕介で、武田鉄矢の出演も予定し、製作も発表されていた。ところが岡田裕介が脚本を読み、自宅で父の岡田茂東映社長に「こんなホンで東映はよく映画を作っているね」と言ったら、岡田茂もホンを読み「確かに酷い」と認め、岡田茂は翌朝、出社するなり社内で怒鳴り散らし、本作の企画を出したプロデューサーをクビにし企画も潰した。武田の俳優デビューももう少し後になった。
金八先生
『3年B組金八先生』第1シリーズの第11話(1980年1月4日放送)では、本曲をキーとした物語が展開された。タイトルもそのものズバリ「母に捧げるバラード」。しかも、この話はスペシャルゲストが海援隊であり、なんと坂本金八と武田鉄矢の共演が実現している。番組はこれを実現させるために当時最先端の映像合成特撮技術を導入・駆使させた。正月明けのレギュラー放送とはいえ事実上の正月番組だったために実現できた模様。
ちなみにこの話、物語の半分が海援隊のライブである。そして金八先生は武田鉄矢からサインを貰っている。が、この話は小山内脚本。もちろんソレで終わるはずはなく、金八先生ついうっかり親のいない生徒(姉が親代わり)に自身の親を懐かしみつつ、彼に親の事を聞いてしまい生徒を困らせてしまった。金八先生は、この大ポカを恥じて自己嫌悪。ついでに、その場にいない海援隊(武田鉄矢)に「あんな歌を歌うから」と責任転嫁&八つ当たりしてしまった。
のち、生徒は姉が土産に買ってきたブランデーを金八に届け、金八は生徒には親はいなくても、きちんと彼を見てくれる家族がいる事に安堵するとともに感謝するのだった。
この回もまた金八先生シリーズでは、よく扱われる「物事(世間)の裏側」を指摘する(このケースでは「物事の流行には、どうしても様々な事情でそれには乗れない人がおり、逆にふとしたきっかけでその流行で苦しむ人もいる。それを『流行に乗れないKY』だと眉を潜めたり非難したりするのではなく、その心に寄り添う事も人として大事な事である」というメッセージを発している)神回のひとつである。