ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

概要編集

谷周平は、幕末に実在した人物。新撰組の隊士。

谷三十郎谷万太郎は実兄。近藤勇養子となったことで知られる(後に解消された)。

経歴編集

嘉永元年(1848年)、備中松山藩士谷三治郎の三男として生まれる。初名は千三郎。父の死後、不祥事で家が断絶となると、兄たちとともに大坂へ出る。

兄たちは大坂南堀江に道場を開くが、千三郎は禅寺に預けられていたとされる。

文久3年(1863年)9月~元治元年(1864年)5月ごろまでに兄たちとともに新撰組に入隊。局長・近藤勇の養子となり、近藤周平昌武を名乗った。

近藤が周平を養子とした経緯は不明だが、阿部十郎によると、谷家を備中松山藩に帰参させ、松山藩主で老中板倉勝静と繋がりを得ようとしていたためとしている。また周平が板倉勝静の落胤であったという噂もあったようだが、信ぴょう性は低い。

池田屋事件では土方歳三の隊に属したとされるが、事件後に勇が故郷にあてた手紙では、一番に斬りこみ槍が折れるほど奮戦した、とされており、養子を迎えたこととともに伝えられている。


新撰組での目立った活躍の記録はないが、長兄三十郎の死、次兄万太郎の離隊後も組に残り続けた。しかし慶応3年(1867年)6月ごろ養子縁組を解消され、谷周平と名を改める。離縁の理由は酒色に溺れたためであったとされる。

翌明治元年1月、戊辰戦争が勃発。新撰組は鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸へ引き上げる。江戸帰還後の混乱の中、多くの離脱者とともに周平も離隊した。


その後兄を頼って大坂に戻り、明治5年には大坂府警の巡査となり谷昌武を名乗るが、翌年辞職。その後神戸の鉄道会社に就職したらしい。

明治13年、10歳年上の播田ツルと結婚し播田姓となるが、明治20年に離婚。明治34年12月2日、神戸にて病死した。


登場作品編集

大河ドラマ『新選組!編集

演:浅利陽介

谷三兄弟の末弟。長兄に無理矢理参加させられる形で入隊。当初の名は谷昌武で、のち近藤勇の養子となる。池田屋の時には近藤勇隊に属していたが、近藤の命により別働隊の土方、松原に浪士たちが集結していることを知らせる。ある時、隊士の浅野薫の脱走計画に半ば無理やりとはいえ参加してしまった事で近藤、沖田の怒りを買い、井上の必死の嘆願のおかげで切腹は免れたものの、養子縁組はいったん取り消しとなり、もとの谷姓に戻される。

鳥羽伏見の戦いにも参加するが、官軍の猛攻を前に逃げ遅れ、結果的に井上が戦死する一因を作ってしまう。流山で勇の薦めによって隊を離れた。この時、彼を思う勇から「命を惜しめ」という、士道とは正反対のいたわりの言葉を与えられた。


関連項目編集

幕末 新撰組 近藤勇

谷三十郎 谷万太郎 三兄弟

関連記事

親記事

新撰組 しんせんぐみ

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 42

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました