経歴
本名は「遠山昭治」。現役時代の1999年シーズンから「遠山奬志」に登録名を変更し、現役引退後もメディアに出る際はこちらの名義を使用している。
八代一高時代、対外試合で通算69勝3敗&打者としても35本塁打を記録した事が注目され、1985年オフのドラフト会議で清原和博の外れ1位で阪神タイガースから指名を受け入団・プロ入りした。
左投げ左打ちの投手。高卒新人の1年目・1986年は先発投手として8勝を記録。しかし翌1987年からは左肩を痛めて中継ぎ起用が増え成績低迷、1990年のシーズン終了後に高橋慶彦との交換トレードによってロッテオリオンズ(→千葉ロッテマリーンズ)へ移籍する事になる。
ロッテでも慢性的な左肩痛で一時期サイドスローも試したが成績は上がらず、1995〜97年シーズンは外野手に転向して現役続行。しかし中々1軍から声がかからず、1997年シーズン終了後戦力外通告を受けた。
1998年シーズンより古巣・阪神へ復帰。野手転向のお陰で「慢性的な左肩痛が消えた」と本人は語っており、阪神復帰の際再び投手としてプレーする事になった。フォームをスリークォーターからサイドスローに変更、シュートの投げ方を習得しワンポイントリリーフで主に起用され、(腰の状態が悪化し引退を決めた)2002年まで現役を続けた。
野村克也監督時代は葛西稔との2人による「遠山・葛西スペシャル」と称して、打者1人と対戦した後一塁手と投手のポジションを入れ替え、同一イニング内で2度登板する「投手→一塁手→投手」起用が何度か行われた。特に巨人の松井秀喜・高橋由伸にはめっぽう強く、松井を13打数0安打に抑えたこともある。当の松井も遠山が苦手な投手だったらしく、「顔も見たくない」と言うほどに苦手だったそう。
現役引退後は野球解説者としての仕事のほか、阪神タイガースへ現場復帰し投手コーチを歴任。現在は大阪府にある浪速高等学校硬式野球部の監督をしている。