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阿部正豊

あべまさとよ

阿部正豊とは松平家臣・阿部定吉の嫡男。通称は弥七郎。(生年不明-1535年)
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森山崩れ編集

1535年、西三河を平定した時の松平家当主・松平清康松平信定を征伐するために尾張国守山に着陣していた際、父の阿部定吉織田信秀と内通して謀反を企んでいるという噂があった。このため清康に誅殺されるかもしれないと云う懸念を父から聞かされ、二心なき旨を記した清康宛ての誓紙を渡されていた。


しかし翌日、本陣で馬が嘶く音を聞いた正豊は父が清康に斬られて死んだと思って激怒し、本陣にいる清康を謀殺した。しかし正豊本人もその本陣に居合わせた植村氏明に斬られ、死亡した。この騒動において父・定吉は正豊の所業を知り自害しようとするが清康の息子・広忠に止められた上に処罰されなかった。


余談編集

1902年、村岡素一郎氏が著作した『史疑徳川家康事蹟』において、森山崩れの逸話は実際は徳川氏が作ったものとし、正豊が斬ったのは清康の孫の徳川家康であり、しかも1560年12月5日の事であり、それ以後の徳川家康は世良田二郎三郎元信という影武者とする説を提示している。


信長の野望編集

松平家のイベントである守山崩れ(蒼天録、天道PK)にて登場。この時は阿部弥七郎名義で登場しており、武将としては登場せずだったが、創造PKにて阿部正豊名義で初登場…かと思いきやステータスは何と、


統率武勇知略政治総合
13017149

総合ステータスは49と結果的に新武将を除いた全武将中、あの一条兼定を9差で下回った事によりワースト1となった。やはり勘違いで清康を討ってしまった事がコーエーにとっては逆補正対象になっているのが痛い。

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