生涯
1952年にプロ入りし、1954年にミルウォーキー・ブレーブス(1966年にアトランタ・ブレーブスに改称)に入団。背番号は44。
本塁打王を4度獲得。うち、3度は自身の背番号と同じく44本を放ってのタイトル獲得だった。
1シーズンでの最高は1971年の47本だが、ウィリー・スタージェルに1本及ばず逃している。
1974年にベーブ・ルースが記録した714本塁打を更新したが、その年限りで21年間在籍したブレーブスを退団し、ミルウォーキー・ブルワーズへ移籍。1976年限りで現役を引退。
背番号44は、ブレーブスおよびブルワーズの永久欠番となった。
1982年にアメリカ野球殿堂入り。
引退後は少年達に野球を広める活動を精力的に続けていたが、2021年1月22日に86歳で死去した。
王貞治との関係
1974年に日米野球で来日した際に、読売ジャイアンツの王貞治と本塁打競争を行い、10対9でアーロンが勝っている。これをきっかけに両者の親交が始まった。
アーロンが引退した翌年の1977年に王がアーロンの記録を超える756号本塁打を樹立した際に、アメリカメディアは球場の狭さと日本の投手のレベルについて指摘していたが、アーロン自身は敬意を示し、王を祝福した。
王もまた、「尊敬する野球人は誰か?」という質問にはアーロンの名前を必ず挙げている。