生没年 1517(永正11)年~1594(文禄3)年
概要
新田金山城主・由良成繁に嫁ぎ、嫡男の国繁と三男の長尾顕長を生む。また娘は武蔵忍城主・成田氏長の正室となり、その娘に甲斐姫がいる。
1578(天正6)年に成繁が亡くなった後に出家。
1584(天正12)年、後北条氏当主の北条氏直より、金山城と顕長の居城となっていた館林城の「借しだし」が要請された。小田原城に出仕していた国繁と顕長は承諾するも、反発した家臣団が妙印尼を大将に据え、反後北条方の佐竹義重・佐野宗綱と同盟を結び金山城に籠城した。しかし多勢に無勢で金山城は落城し、妙印尼と国繁は桐生城(群馬県桐生市)へ、顕長は足利城(栃木県足利市)へ移動した。
1590(天正18)年、豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、国繁と顕長は小田原へ召集され籠城軍の一員となるが、妙印尼(73歳)は国繁の嫡男である貞繁と共に豊臣軍に加わり、松井田城(群馬県安中市)攻めに加わった。
この功績により戦後、妙印尼に対し常陸牛久(茨城県牛久市)で5,400石を与えられ、妙印尼の死後は国繁が継ぎ幕末まで続くことになった。