概要
江戸城無血開城とは、戊辰戦争で行われた戦後処理である。
慶応4年(1868年)正月6日、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が薩摩・長州を主力とする新政府軍に敗れたことを知った将軍・徳川慶喜は新政府軍が「錦の御旗」を立てていたことで幕府が賊軍になり、みずからも朝敵になったことを知る。
これらの事実に慶喜は徹底抗戦を主張する京都守護職・松平容保(会津藩主)、京都所司代・松平定敬(桑名藩主)を強引につれだし大坂城から脱出、取り残された旧幕府軍将兵は愕然としたという。
江戸に帰った慶喜は海軍奉行を解任された勝海舟に新政府軍との和平交渉を依頼、みずからは上野の寛永寺に謹慎した。
慶応4年(1868年)3月、官軍は有栖川宮熾仁親王を総司令官、薩摩藩・西郷隆盛を参謀にして江戸へ下向、総攻撃の日にちも3月15日に定めていたが、13代将軍・徳川家定の正室であった天璋院篤姫(島津斉彬の養女)と14代将軍・徳川家茂の正室であった和宮(孝明天皇の妹宮、有栖川宮の婚約者でもあった)から「慶喜の助命嘆願」の書状と勝から「和平交渉」の使者・山岡鉄舟が訪れたことから、西郷は勝との会見を決断した。
江戸総攻撃前夜、西郷は「江戸城明け渡し」「幕府軍の武装解除」「徳川慶喜を備前藩に預けること」を要求したが、勝は慶喜の流刑を拒否、「どうしても、というのなら一戦に及ぶまで」と発言したことで「慶喜は駿河で謹慎生活を送ること」で妥協し、江戸が戦場となり焼け野原になることはなかった(この当時、幕府艦隊は健在であり、榎本武揚は幕府艦隊を率いて蝦夷地へと向かっている。また、江戸には幕府に味方する部隊も多数残されていた)。
その一方で会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らは旧幕府から切り捨てられたあげく朝敵の汚名を着せられて逃亡、降伏を許されなかったことから「奥羽越列藩同盟」を結成し会津で新政府軍と戦わざるをえない状況に追いやられた。
また、徳川家への処分を不服とした一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らが彰義隊を結成。それに幕臣も合流し、慶喜が謹慎していた上野の寛永寺へ集結、更に輪王寺宮慈性入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立する動きを見せた。そのため長州藩・大村益次郎の指揮のもとで薩長軍がこれを攻撃・殲滅する上野戦争(一日で終結)が勃発している。
維新の終結後、明治新政府は暦を慶応4年正月まで戻し、明治元年に改元している。