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概要編集

東晋の干宝が著した志怪小説集『捜神記』にその記述が見られる、陳倉(ちんそう:現在の陝西省宝鶏市陳倉区)にある陳宝祠(ちんぽうし)に祀られる雌雄


記述によると穆公(ぼく:在位前660~前621)の時代、陳倉の住人たちが地面を掘っていると、地中からのようなのような姿の奇妙な生き物が掘り出された。


人々はこの珍しい生き物を穆公に献上しようとした所、何処からともなく二人の子供が現れ「それはという怪物です。地中に棲んでいて、死人の脳を食べます」といった。

その話を聞いた人々は気味悪がり、妖怪祟りを恐れ震え上がったが、子供たちは「(妖怪は) 首にや児手柏の木の枝を刺せば死にます」というので、村人の一人が柏の木の枝を探して持ってきた。


すると今まで死んだふりをして様子を窺っていた媼が身の危険を感じたのか起き上がって「この二人の子供は人間などではなく陳宝とう神獣で、男の方を捕まえれば皇帝に、女の方を捕まえれば覇王になる事が出来る」と告げた。


これを聞いた人々は欲に目が眩んだのか一斉に子供たちを捕まえようと襲い掛かったが、子供たちは雉の姿に変じて逃げてしまった。


この一連の出来事を聞いた穆弘は直ちに大勢で狩りを行い雌の記事を捕まえたが、雉は直ぐに石に姿を変えてしまったで、その石を渭水(いすい)の畔に祠を建てて、その中に祀った。一方、雄の雉は南方へと飛んで逃げて行き、河南省雉県(ちけん)の地に落ち着いた。


それ以来、雉が変じた石を祀った祠の祭日に、祠で祭祀が行われるとその度に雉県の方から、長さ十丈余りの赤い光が飛んで来て、祠の中に差し込み、雄雉の鳴き声が響く様になったという。


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