黎明期
ドイツ帝国の成立直後、陸軍はプロイセン王国やザクセン王国、バイエルン王国等の諸邦の陸軍が存続され、それらの連合体として国軍を形成したのに対し、海軍は一括して皇帝の直轄となった。
第三代皇帝ヴィルヘルム2世の時代、帝国主義的な膨張政策をとるヴィルヘルム2世は、植民地獲得戦争において圧倒的な影響力をもつ英海軍に対抗するため、海軍長官アルフレート・フォン・ティルピッツの下に大規模な艦隊を建造した。大洋艦隊(ホーホゼーフロッテ/Hochseeflotte)と呼ばれた大艦隊は日本やアメリカすら凌ぐ大艦隊となり、世界第二位の海軍として、イギリス海軍やフランス海軍と激しい建艦競走を繰り広げた。
第一次世界大戦
大戦においてもドイツ海軍はコロネル沖海戦、フォークランド沖海戦、ドッガー・バンク海戦、ユトランド沖海戦でイギリス海軍相手に激戦を繰り広げた。しかし、元来陸軍国であるドイツ帝国は開戦後は陸軍に多くの工業力を割かねばならず、新型艦の建造は一気にペースダウンした。対して海軍国イギリスは大戦中も続々と新戦力を投入、ドイツ海軍は次第に劣勢を否めなくなり、Uボートによる通商破壊作戦が中心となっていった。
エムデン(軽巡洋艦)
第一次世界大戦の殊勲艦。インド洋において通商破壊作戦に従事し、撃沈されるまでに30隻以上の連合国商船・艦船を撃沈または拿捕した。神出鬼没にして大胆不敵な行動は驚嘆の的となり、インド洋の連合軍通商航路はたった一隻の軽巡のためにパニックに陥った。
全長118.3m 満載排水量4270トン 最大速力24.0ノット
10.5cm単装速射砲10基 5.2cm単装速射砲8基 45cm単装魚雷発射管2基
キール軍港の反乱
四年に亘る大戦争による経済停滞と総力戦体制は国民に多大な困窮と辛苦を強いており、折りしもロシア革命の成功も相まって、国民や兵士達の間には政府に対する不満が増大していた。そんな折、キール軍港に停泊していた大洋艦隊の水兵達が出撃を拒否し、出撃命令に抗議するデモを行った。これを鎮圧しようと官憲が発砲したために一気に蜂起へと拡大、ドイツ革命の火付け役となった。
スカパ・フロー一斉自沈
休戦交渉終結後にドイツ大洋艦隊の主力はイギリスのスカパフローに回航・抑留された。1919年5月7日、発表されたヴェルサイユ講和条約案は、抑留中の全艦艇を連合国に引き渡すこととされ、僅かな水上艦艇のみの保有が許された。潜水艦と飛行機の保有は許されなかった。抑留艦隊司令官ルートヴィヒ・フォン・ロイター提督は、賠償艦として引き渡すことを潔しとせず、1919年6月21日抑留中の全艦艇に一斉自沈を命令した。しかし、その代償は大きかった。連合国はドイツ艦隊をいかに切り分けて自国海軍に組み入れるかを考えていたのに敗戦国のこの仕打ちで、イギリスはよりにもよって自国のお膝元、スカパ・フローで自沈をされたのだから面目は丸つぶれであった。しかる後、連合国はドイツに対し「自沈した艦に匹敵する賠償」を強く要求し、60日以内に提出するよう厳命した。ドイツ海軍には自国海域を守るための最低限の戦闘艦すら召し上げられ、更に海軍設備のうち浮きドック・港湾クレーン・タグボート・サルベージ船(救難船)・補給船など総計40万トンと全てのUボートと装備品が没収された。無論としてこれらの艦艇・設備の輸送費はドイツの負担により連合国の各国の港に輸送されたこれらは連合各国に働きに応じて分配された。更に建造中の艦艇は全て解体処分とされ、資材は商業活動目的にのみ利用された。
ヴェルサイユ条約下
ヴェルサイユ体制下でのワイマール共和国におけるドイツ海軍は、陸軍同様に厳しい制限を受けた。 前述の自沈の賠償の影響が海軍の艦艇・設備に暗い影響を与えていた。
海軍の総人数は15,000人に制限され、そのうち海軍士官は1,500人以下とされた。予備役は保有できず、海軍将校クラスは志願制により最低25年は勤める事とされ、その他の兵役は12年勤務に制限された。一旦、海軍を退役した軍人は、軍事教育に関わる分野への再就職は絶たれ、海軍に関する天下りも出来なかった。また、第一次大戦終了時から勤務する海軍士官達は病気以外は45歳になるまでは継続勤務することを海軍に誓約せねばならなかった。
海軍の仕事として第一次大戦時に敷設した機雷の掃海作業とし、母艦の新規建造は制約されたために戦艦を掃海艇母艦へと改造するしかなかった。これらの作業は欧州大陸周辺の指定海域の安全が保障されるまで続けられた。
また、既存艦艇の更新のみ軍艦の建造が出来るが排水量は一万トンを超える事は出来ない。軍艦の使用年数は戦艦と巡洋艦は20年、駆逐艦と水雷艇は15年まで使用することとされた。これらの艦艇は戦前のドイツ海軍でさえ二線級どころか退役間近のレベルであり列強各国の海軍と比較するのもおこがましいような代物でしかなかった。
ポケット戦艦の建造
ドイツ海軍は上述の通りの厳しい制約下で、さらに西にフランス、東にポーランドと二つの仮想敵国に挟まれ、またオストプロイセンが飛び地になるなど、非常に厳しい戦略状況にあった。この状況下で建造されたのが、28センチ砲搭載のドイッチュラント級装甲艦である。「戦艦より速く、巡洋艦より強い」(28cm6門、27ノット)と称した、この通称ポケット戦艦は、旧式艦の多いフランスと軽艦艇のみのポーランドの双方を相手にすることへの苦肉の策とはいえ、ワシントン軍縮条約での制限(主力艦以外は、排水量1万トン以下、備砲28センチ以下)とヴェルサイユ条約での制限(排水量1万トン以下、備砲20センチ以下)の間隙をうまく突いた艦であり、その建造は世界を驚かせた。
アドミラル・グラーフ・シュペー(重巡洋艦)
ドイッチュラント級装甲艦の3番艦。開戦から短期間で、中立国ウルグアイにおいて自沈を余儀なくされた。2004年からウルグアイ政府は引き揚げ作業を開始し、2007年にはハーケンクロイツを掴む鷲を象った主権紋章を引き揚げ、これが競売にかけられると大きな話題を呼んだ。取り立てて目立った戦績はないが、知名度は低くない。だいたいコイツのせい
全長186m 満載排水量16200トン 最大速力28.5ノット
52口径11インチ3連装砲2基 5.9インチ砲8門 150mm砲6門 37mm対空砲8門 20mm対空砲10門 21インチ魚雷発射管8基
再軍備宣言
1935年にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄すると、再軍備を宣言。英独海軍協定を締結した。これにより潜水艦を除いたドイツ海軍は対英比率35%(42万595トン)を合法的に拡張する事が許された上、船体サイズもワシントン海軍軍縮条約に準じた戦艦35,000トン、重巡洋艦10,000トンまで拡大された。これを受け、海軍の拡張計画も開始される。しかし、フランス海軍の増強(超弩級戦艦ダンケルク級である)を察知したため、D級装甲艦シャルンホルスト級の改設計を行ない、同年にシャルンホルスト級2隻の建造が再開され、翌年にはビスマルク級2隻も起工される。この時期のドイツ海軍はZ計画に基づき、大規模な水上艦隊の建設をおこなう予定であった。1939年という早い時期に対英開戦となったため、これらの艦艇は建造されることは無かったが、開戦が5年遅ければ、かなり違った様相を呈したと思われる。
シャルンホルスト(巡洋戦艦)
フランスのダンケルク級に対抗するために大型化されたD級装甲艦。均整の整った純白の船体から『世界一美しい軍艦』と評される一方。関係者に次々と不幸が襲う『呪われた戦艦』としても有名である。
全長235.4m 満載排水量38900トン 最大速力33.0ノット 28.3cm(54.5口径)3連装砲3基9門 15cm(55口径)連装砲4基8門+同単装砲4基計12門 10.5cm(65口径)連装高角砲7基14門 37mm(83口径)連装高射機関砲8基16門 20mm(65口径)連装高射機銃5基10門
ビスマルク(戦艦)
英仏の海軍から、通商破壊任務に従事する艦船を防衛するためには戦艦艦隊が必要とされ、その中核を担うために建造された、ドイツ最後の超弩級戦艦。
全長251.0m 満載排水量50300トン 最大速力30.8ノット
38cm連装砲4基 15cm連装速射砲6基 10.5cm連装高角砲8基 3.7cm連装機関砲8基 8.2cm四連装機関砲2基&同単装機関砲12基
第二次世界大戦
1939年、ポーランドに侵攻したドイツに対し、英仏は宣戦布告。ヒトラーにとっても、このタイミングでのイギリスとの開戦は青天の霹靂だったが、海軍にとっても、Z計画がほとんど進展していない状況での開戦となってしまった。ヴェルサイユ条約破棄後、ヒトラーは英仏の有力な海軍力に対抗するため、Z計画を始めとした大規模な建艦計画を承認した。しかし計画達成を1944年としたため(ヒトラーは「対英戦争は1945年まではない」と海軍側に説明していた)予想外の第二次世界大戦の開戦とともに、Uボート建造の拡大から大型艦艇の建造は徐々に縮小された。
この時点でドイツ海軍が保有する主力艦は巡洋戦艦2、ポケット戦艦3、重巡洋艦2、軽巡洋艦6であり、またポケット戦艦といわれたドイチュラント級は実質的には重巡洋艦でありイギリスの戦艦と正面切って戦う力はなく、シャルンホルスト級は高速ながら火力に乏しく、ビスマルク級も完成当時は世界最大の戦艦であったが、ヴェルサイユ条約のため、新造艦の建造数が少なく、設計が古かったことが災いして同時期の各国の新鋭戦艦に比べれば問題のある艦であった。また航空母艦もなく、重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦も十分ではなかった。後述の如く、空軍との対立故に海軍航空隊も弱体であり、尚且つ空軍も海上での戦闘を得意とする日本の零式艦上戦闘機やアメリカのF4Fのような巡航性能に優れた単発戦闘機を実戦配備どころか開発すら行っていなかったため、海上の制空能力は皆無に等しかった。ドイツ海軍総司令官エーリッヒ・レーダーはこの状況を「いまや海軍は勇敢に死ぬことを知っているだけだ」と表現したという。Uボートは開戦と同時にイギリスの海上補給路を攻撃し始めた。ドイツ海軍は水上艦艇も通商破壊戦に投入し、開戦数カ月でアドミラル・グラーフ・シュペーは数万トンに達する戦果を挙げた。Uボートはイギリスを崩壊寸前まで追い詰めた。後にチャーチルは「私が大戦中に恐れたのはUボートの脅威のみである」と語った。
第二次世界大戦におけるドイツ海軍の基本は通商破壊戦である。開戦時にドイツ海軍が保有する大型艦はわずかであり、まともにイギリス海軍に挑めるはずもなかった。大西洋を中心にノルウェー海や地中海、遠くはインド洋までUボートによる群狼作戦を行い、ポケット戦艦、仮装巡洋艦を派遣し、連合軍輸送船団を攻撃した。イギリス海峡では水雷艇による襲撃を行っている。英米もこれに対処するために輸送船に駆逐艦を付けたり、護衛空母を付けたりした。特に戦争終盤はUボート側の損害が増大し、最終的な戦果のバランスシートは意外なほどに低いものとなっている。バレンツ海海戦での海軍の対応に激怒したヒトラーは、水上艦隊の解体を宣言した。これを受けレーダー提督は権威が失われたと海軍総司令官を辞し、後任のUボート戦の司令官であったカール・デーニッツは、水上艦艇の存在の重要性を説き、ヒトラーの命令を事実上撤回させた。しかし、乏しくなった資源は水上艦艇より潜水艦の建造や修理に割り当てられてゆき、さらに英軍の攻撃により艦隊は消耗を続け、シャルンホルストの沈没した1943年12月のクリスマスに起きた北岬沖海戦以降、戦争終結時のソ連軍からのドイツ難民救出作戦まで活動はない。
ドイツ海軍と空母
レーダー提督は早期から空母と海軍航空隊の必要性を主張しており、ヒトラーにその整備を再三要求していた。しかし、これを空軍の所轄を侵すものであると考えた空軍総司令官へルマン・ゲーリングにより、逆に艦載機部隊まで空軍の所轄とされてしまう。開戦時点で海軍はグラーフ・ツェッペリンとウェーザーの二隻の空母を建造中だったが、潜水艦の増産を優先した結果、どちらの建造も遅々として進まず、最終的にヒトラーの大型艦建造中止命令により、どちらも完成することは無かった。
空母グラーフ・ツェッペリンとFi167艦上雷撃機
ドイツ海軍が建造していた空母。前述の通りヒトラーの大型艦建造中止命令により、完成することは無かったが、この時点で既に九割方完成していた。尤も、無理に完成させたとしても運用するだけの余力はドイツ海軍には残っていなかった。
Fi167はグラーフ・ツェッペリンに搭載予定であった艦上雷撃機であり、同艦の建造中止に伴い、同盟国クロアチアへと売却された。同国でSTOL性能を買われたFi167は、孤立した部隊へ物資を運ぶ輸送機として運用された。その任務の最中、最高のレシプロ戦闘機として名高いP-51の襲撃を受け、何をどうやったのか、これを撃墜するという快挙を挙げた。これは史上最後の複葉機による撃墜記録と言われる。
戦後
1955年にNATOの下で再建され、同盟国の海軍と共に北海とバルト海に対するワルシャワ条約機構軍の侵攻に対することが期待され、フリゲートと潜水艦を主力とする小規模な海軍として成長してきた。冷戦が終わった現在は、平和活動に活躍することが期待されている。