概要
文武天皇4年(700年)、 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に弓削櫛麻呂の息子として生まれる。
弓削氏は物部系の名家であるが、彼には天智天皇ゆかりの出自ではないかと言う説も存在する(後述)。
若き日に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、華厳宗の名僧良弁からは、当時最高の学問の一つだったサンスクリット語を学び、禅や祈祷に優れた秀才になったという。
天平宝字5年(761年)、内道場(皇居内に設けられた仏教の道場)に仕えていた道鏡は孝謙天皇(当時は上皇)の病を治す役目を拝命し、見事に治癒させ奉ったことで絶大な信頼を賜ることとなる。
その様子を見て危機感を抱いた淳仁天皇と、その後見人である藤原仲麻呂は上皇との対立を深め、天平宝字8年(764年)遂に戦いとなる。道鏡は、その先年である天平宝字7年(763年)に少僧都に任じられ、淳仁帝が捕まって仲麻呂が殺された直後には太政大臣禅師となった。
天平神護2年(766年)、2年前に称徳天皇として重祚された孝謙上皇は道鏡に法王の地位を下賜し、彼を天皇とほぼ互角の地位に引き上げた。道鏡は女帝の期待に応え、中国やインドなどから伝来した仏教理念を重んじた政治を行った。
一門も出世の一途をたどり、弟の弓削浄人は8年間で従二位大納言と言う高位を賜ったという。
だが運命は神護景雲3年(769年)に暗転する。その年の5月、大宰帥の弓削浄人と大宰主神(神官)の習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上したのだった。称徳天皇は配下の尼僧・和気法均(わけのほうきん)を遣わそうとするも、彼女の体調を慮って弟の和気清麻呂を派遣した。
だが、清麻呂は占いを司る巫女に何度も託宣を求めた結果、僧形の神が下されたという「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」(※)と言う託宣を言上したため、道鏡によって「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて大隅に流刑となってしまう。
※この国は建国以来主君と臣下が決まっており、上下が入れ替わったことは無い。跡継ぎは必ず帝の血筋を据えるべきである。無理を言う奴はさっさと退けろ。
その後も称徳天皇は道鏡を重用するが、神護景雲4年(770年)8月4日に崩御。
女帝の陵に仕えていた道鏡は、無抵抗な状態で軍事や経済に関する権力を剥奪されたうえ、藤原氏の傀儡となった老帝・光仁天皇の勅命で8月21日に下野国薬師寺別当に左遷され、宝亀3年(772年)4月7日に亡くなった。その葬儀は庶人の格式であったと伝えられている。
道鏡にまつわる逸話
- 天皇の地位を狙ったと言う疑惑から道鏡は尊王論を唱える人々に国賊として憎まれること甚だしく、戦前日本では平将門、足利尊氏と並ぶ日本三悪人に数えられた。だが、それは皇室(と言うかそれを担ぐ体制派の人間)から見た悪でしかない。
道鏡が登場する作品
- 里中満智子の「女帝の手記」。温和で朴訥な高僧で、人には優しいが自分に厳しい性格。優し過ぎる性格のため、尊敬する女帝の命を断れず簒奪を起こしたように描かれる。哀しき悪役と言うべき存在で、道鏡再評価の一因ともいえる。
- 小林よしのりの「天皇論」シリーズ。第一弾では中国風の服で髭面の悪人だったが、後に出された「女性天皇の時代」では恐ろしい中に気品と尊さを持った渋い中年になっている。そうした描写の理由としては、落胤説や「君臣の分」が和気清麻呂によって明確化されたという説を採用しているものと思われるが、詳細は不明。