この戦いはドイツによるイングランド本土上陸作戦のため、1940年7月10日~10月31日の間、イギリス空軍および天候と戦闘を行ったものであり、結果としてドイツはイギリスにおける制空権を確保出来ず、ソ連との戦争が迫っていることから、作戦実行を中止した。
経過
状況と目的
アドルフ・ヒトラー率いるドイツ第三帝国は、ポーランドとの戦いに勝ち、西側のベルギー、オランダ、フランスを蹴散らし、大陸における優位を確保したものの、この戦争に参戦し、ダンケルクにいたイギリスおよび(自由)フランスの兵力を取り逃がすということになった。
これを放置すると兵力を整えて反撃されることを恐れたドイツは、先制攻撃で後の憂いを絶つことを狙い、イギリス本土に上陸する作戦を計画し、そのための制空権確保のため、この戦闘が行われることとなった。
そしてドイツはあわよくばイギリスを降参に追い込んで無力化しようともくろんでいた。
双方の戦力
この戦いにおいて用いられたドイツの戦闘機は単発で距離を稼げないBf109、双発で重いBf110等であり、爆撃機としては、旧式のドルニエDo17やハインケルHe111、ユンカースJu87、Ju88等を用いた。
一方イギリス軍は、スーパーマリンスピットファイア、安定の2番打者と見なされていたホーカーハリケーン、あるいは、鈍重なブリストルブレニウム、さらには、戦闘機として致命的な欠点を抱えているはずのボールトンポールデファイアントなども用いて迎撃を行なった。ここで前置きしておくが、ドイツ軍の物量に対して、イギリス軍は、航空機もパイロットも不足していたため、この時点で二戦級の機体や部隊ですら、ドイツ軍の迎撃に動員されたのである。
前哨戦
ドイツはまだ完全に平定していなかったフランス北西部を平定、それと同時にイギリス本土にも夜間爆撃を行っていた。この攻撃に対してはイギリスの戦力ではかなり撃退は困難(サーチライトも少なく、夜間戦闘が可能な航空戦力は旧式のブレニムのみ)であった。
初期から中期
ドイツ軍は7月10日、ドーバー海峡の艦船に対して攻撃、この攻撃はイギリス特有の天候により有効打を与えることが出来なかった。前後して講和(イギリスにとっては降伏に近いもの)を突きつける。これを7月22日にイギリス議会が拒否することを決定すると、ドイツは本気で海峡を航空機により封鎖する作戦に出る。しかし、イギリスにとって幸いなことにドイツ軍には雷撃機がなかった。
講和を拒否されたドイツは本格的にイギリスを攻撃することに決め、イギリス空軍の殲滅を目指すことにした。それと同時にイギリス本土にあるレーダー基地および工場に対しても攻撃を行った。これに対してイギリスは反撃および修復を行ない、いわゆるゲリラ戦で対抗した。
ドイツ軍はヘルマン・ゲーリングの旧来の戦略に疑問を感じた部隊が新戦術を考え出したりした。
中盤以降
イギリス軍は航空兵の不足が明らかとなった。そこで、ダイナモ作戦などで亡命してきた外国人パイロットたちに助力を呼び掛けて急場をしのいだ。ここにきて、ドイツ軍によって故国を失ったポーランド人や、チェコスロバキア人、ベルギーやオランダ、フランス、ノルウェー、デンマーク、さらには、遠くギリシャやユーゴスラビアなどから流れついてきたパイロットたちが集まり、そこへさらに、同じイギリス連邦のオーストラリアやカナダ、ニュージーランド、南アフリカ。次いで、まだ第二次世界大戦に参戦していなかったアメリカからも義勇兵が参加、外人航空隊を構成し、イギリス空軍の支えになった。そして、侵攻してくるドイツ軍を返り討ちにした。彼らの奮戦は、今日の歴史では伝説となっている。
また、イギリスの首相であるウィンストン・チャーチルも演説を行ない自軍の航空隊を鼓舞した。実はこの頃戦闘により航空機の消耗が激しくなっておりイギリスもかなり苦しい状況であった。
ドイツ軍のロンドン誤爆が起こり、これに対してイギリス軍はベルリンを爆撃、報復としてロンドンを大規模空襲を行う(これによりイギリスとの講和を目指す目的もある)ことを決定、実施したものの、むしろイギリス国民の団結を生み、逆効果となった。
さらに、ドイツはソビエト連邦との戦争を検討していたことなどから、イギリス上陸作戦をあきらめることとなり、大規模な戦闘を行うことはなくなった。
以後
その後も小競り合い程度の戦闘は1942年まで継続するが、イギリスのモスキート夜戦型およびスピットファイア低空型の配備によりこの海域の制空権はイギリスが得た。
pixiv他
当時の戦闘中の状況を記載したイラストが投稿されている。なおこの戦闘を映画化したのが空軍大戦略である。