英語:Confederate States of America
略号:CSA
概要
アメリカ連邦からの分離独立を宣言した、大陸南部の諸州で構成された国家で、『南部連合』『南部同盟』『アメリカ南部連邦』などとも呼ばれる。
1861年に独立後、南北戦争の敗北によって消滅した1865年までの4年間存在した。
構成州
州名 | 脱退日 |
---|---|
サウスカロライナ州 | 1860年12月20日 |
ミシシッピ州 | 1861年1月9日 |
フロリダ州 | 1861年1月10日 |
アラバマ州 | 1861年1月11日 |
ジョージア州 | 1861年1月19日 |
ルイジアナ州 | 1861年1月26日 |
テキサス州 | 1861年2月1日 |
ヴァージニア州 | 1861年4月17日 |
アーカンソー州 | 1861年5月6日 |
テネシー州 | 1861年5月6日 |
ノースカロライナ州 | 1861年5月21日 |
歴史
南部では農業が中心であり、黒人の奴隷による労働に依存したプランテーション(大規模農園)が盛んで、特に綿花が多く生産され、ヨーロッパへと輸出していた。
また、農園所有者が実質的に南部を支配して取り仕切っていて、イギリスを中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益となっていたため、南部は政府の介入・干渉を排して生産者や商人が自由に交易を行える自由貿易を望んでいた。
しかし、北部では急速に工業化が行われており、新たな流動的労働力が必要であったため、奴隷制を必要としていなかった。
更に商工業の振興のため、保護関税や交通網の整備などが求められていたため、南部とは違い国内の取引と国外の取引の間に関税などの交易障壁を設けた保護貿易への期待が高まっていた。
南部では自分たちの上げた利益が税金などとして連邦政府に吸い上げられ、北部の重工業化などに使われることへの反発が起こり、こうした経済的な事情から南部諸州のアメリカ連合国としての分離独立と、それを認めない連邦政府との対立による南北戦争が引き起こることとなった。
奴隷制について
戦争終結後のアメリカや日本において、「北軍は奴隷解放のために戦い、南軍はそれに反発して戦争を起こした」という認識がされるようになったが、歴史学者の倉山満氏によれば、これは北軍が自分たちの侵略戦争を正当化するために行ったプロパガンダ(宣伝)工作によるものであるという。
有名なものに、ストウ夫人(ハリエット・ビーチャー・ストウ)による奴隷にされた黒人が悲しい目に遭い非業の最期を遂げる様子を描いた小説『アンクル・トムの小屋』がある。
しかし南部の主張では、「黒人奴隷は貴重な財産だ。アンクル・トムの小屋みたいな話はありえない。大体、ストウ夫人は一度も黒人奴隷を見たことがなかったのではないか」としており、黒人は奴隷の身分だったが大事にされていたと主張している。
現に南北戦争以前のアメリカ連邦時代における最初の6人の大統領は、全員南部のヴァージニア州出身で、『ヴァージニア王朝』とも呼ばれており、「建国の父」と呼ばれているジョージ・ワシントンや独立宣言文の作者であるトーマス・ジェファーソンはもともと大農場主で、奴隷だった黒人女性の愛人がおり子供まで生まれていたという。
逆に北部はというと、確かに黒人奴隷はいなかったが、かといって彼らに自由があり差別が無かった訳ではなかった。
例を挙げると選挙における黒人の投票率は0%であり、その理由は投票所に黒人が来ようものなら白人が集団でリンチして追い返してしまっていたからであり、警察も裁判所も見て見ぬふりを決め込んでいたという。
これらから見るに、北部の言う奴隷解放とは建前に過ぎず、真の目的は大陸から黒人を追い出して白人だけの国にすることが目的だったと主張する者もいる。
戦争は当初、世界第3位の大国だったフランスから国家承認を得て、軍人の質で勝っていたアメリカ連合国(南軍)が善戦していたが、アメリカ合衆国(北軍)は当時の大英帝国の首相で熱心な奴隷解放論者だった第3代パーマストン子爵(ヘンリー・ジョン・テンプル)と通じて世界第1位の大国だったイギリスを味方につけようとした。
そこで考え出されたのが「この戦争は奴隷解放のための正義の戦争である」とした『奴隷解放宣言』なのである。
戦後、南部各州は北部による軍事占領下におかれ、『奴隷解放宣言』により南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放され、そのもとで黒人に投票権が与えられた。
しかし、1877年以降南部の白人が州内において主導権を取り戻すと、今度はその反動で南部各州では相次いで有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が立法化され、奴隷こそいなくなったものの人種差別はふたたび強化された。
黒人に対する差別や偏見はKKKなどの活動を生み出す土壌となり、この人種差別状況が改善されるのは、1960年代のアフリカ系アメリカ人公民権運動を待たなければならなかった。
北部・南部の禍根
総合的な国力で優り、イギリスを味方につけた北軍は徐々に優位となり、南軍は最後の2年には棒切れや石ころを使ってでも戦うようになるまで追い詰められ、完膚なきまでに破壊し尽くされてしまい、南軍の指導者や軍人たちは徹底した復讐裁判で糾弾され、宣伝工作によって南軍は悪の軍勢というレッテルを貼られてしまった。
倉山氏によれば、第二次世界大戦時の日本と、アメリカが中心となったGHQとの関係や、戦後に行われた復讐裁判にあたる東京裁判(極東国際軍事裁判)はこれと同様のもので、日本の場合は連合国に与えた打撃(精神的なものも含む)が非常に大きかったこと、戦後の占領下におけるGHQとの交渉などでの立ち回り、その後の世界情勢の変化などから植民地化を免れただけ幸いだったが、アメリカ連合国は国家が存在していたことさえ揉み消されてしまったのである。
こうした南北戦争における北部と南部の禍根は今だに無くなっておらず、現在でもアメリカ南部では北部の人のことを「ヤンキー」、北部では南部の人を「レッドネック」と互いに憎々しげに呼ぶ文化が未だに残っているほどで、アメリカに大きな傷痕を残してしまっている。
テキサス州などでは、日本人に対し第二次大戦時代について、「お前ら日本人が太平洋でヤンキー(北部のアメリカ人)をやっつけてくれてよかった」と奇妙な褒め言葉をくれる年配者がいるという。