松永久秀
まつながひさひで
概要
生 没:1510年?~1577年11月19日(永正7年~天承5年10月10日)
出 身:山城(現在の京都府南東部)
領 土:大和(現在の奈良県)
人物像
戦国時代屈指の「梟雄(きょうゆう)」。弾正の官職に就いたことから松永弾正(まつながだんじょう)とも呼ばれる(※)。一部の人には腹黒爺さんともいわれる。
(※ただし弾正の官位自体は「行政監察」という役職上朝廷の方針に公然と否を唱える事が許されたので、多くの戦国武将に好まれ自称されていた。第一の主君三好長慶の死後、織田信長に仕えつつも、隙を見てその嘴を突きたてた油断も隙もない人物である。
信長が久秀を徳川家康と合わせた際……
「この老人は常人にできぬ事を三つもやってのけた。
一つは(主家である)三好家の乗っ取り。
そして東大寺の焼き討ちである」
と言って評したように、謀略を駆使し下剋上をなした稀代の謀将として知られる。
一方で領民には善政をしいていたり、城郭建設に長けまた茶道などにも通じた当時における屈指の文化人でもあった。特に医学の推進や、日本初の天守閣付きの城の建設、茶道においては誰もが欲しがる数々の名器を所持していた、などこれら諸々の要素が教養の高さを示している。
久秀の実像
下剋上の代名詞などのイメージを一般には抱かれており、小説を始めとした創作においてもそのような人物として描かれることが多いが、こうした久秀のイメージは、後世に成立した『常山紀談』などを典拠として成立したところが大きい。近年の研究では、少なくとも実際の久秀は主君・三好長慶の存命中は、目立って謀反を起こしたり専横をしたことは一次史料からは確認できない。また長慶の嫡男・義興や長慶の弟・十河一存を暗殺し、長慶の弟・安宅冬康を讒訴して殺させ、三好政権を崩壊へと導いたといわれるが、これらの情報も多くは軍記物などを典拠としたもので、信憑性に乏しい。
将軍弑逆も、実行したのは息子の松永久通と三好三人衆で、久秀自身は参加していない。
また東大寺の焼き討ちの件も、対立する三好三人衆の本陣が東大寺であったため合戦中に失火し、結果として久秀が攻めたから焼けたということで伝わったようである。
来歴
出生については諸説あり、前半生については不明な点が多い。
天文9年(1540年)頃に三好家に仕え、しばらくは三好一門に従事する。弟・長頼と共に戦で活躍する一方、久秀は三好家と将軍家の間を取り持つ仲介として、接待や交渉、その他様々な仕事を任されており、何かと手の回る奴として重宝されていたようである。
そして永禄7年(1564年)、主君・長慶が死去すると、まずは三好三人衆とともに主家乗っ取りを画策しこれに成功、翌年には室町幕府・13代将軍の足利義輝を襲撃して畿内の覇権を掌握した。しかしこの支配権に絡んで三好三人衆と諍いとなり、永禄10年(1567年)に三好三人衆が東大寺大仏殿に立てこもると、それに対して焼き払うという暴挙で応戦した。
この混乱の平定に乗り出したのが織田信長であった。永禄11年(1568年)、上洛してきた信長に対し、三好三人衆との戦で消耗していた久秀は降伏を即決し、名器・九十九髪茄子(つくもなす)を手土産として差し出した。久秀に一目置いていた信長は、降伏を受け入れて自身の傘下に取り込み、大和国の支配権を与える。久秀もそれに応えるように、元亀元年(1570年)の朝倉・浅井との撤退戦で活躍を見せる。
しかし梟が大人しくしていたのもここまでで、足利義昭が『織田包囲網』を画策するとこれに賛同して造反。だが、甲斐の武田信玄が元亀4年(1573年)に病死したため失敗に終わった。この一件は、秀久の居城である多聞山城を明け渡しことで落着し、久秀は再びの信長の下に戻った。
天正5年(1577年)、信長が本願寺顕如との戦いで苦戦を強いられるさなかに二度目の謀反を決行。織田軍を抜け出して信貴山城に籠城を決め込んだ。追い詰められた一族は天守閣に放火し、久秀は平蜘蛛茶釜を破壊して自害した。切腹後に首を茶釜とともに家来に爆破させたとも、茶釜を叩き壊して自ら火にとびこんだともいわれている。
昭和時代以降に「平蜘蛛に火薬を詰め込み火をつけて城ごと自爆する」と脚色されて小説やドラマで広まると、「戦国のボンバーマン」というあだ名が創作界隈では付けられるようになった。
小話
- 筒井順慶と配下である島左近とは、大和国の支配に関連して幾度となく刃を交えており、左近は久秀との度重なる戦で鍛えられることとなった。
- 中風予防のためにお灸を欠かさなず、決まった時刻に頭のてっぺんに据えていたという。切腹前にもお灸をしており、小姓から「今から死のうというのに健康なんか気にしてる場合ですか」と問われると、「中風で手元が狂って失敗したら恥ではないか」と返したという。
- 永禄9年(1566年)、三好三人衆との戦いの最中、クリスマスを理由に休戦した。
- 性技指南書を著しており、親交があった医師である曲直瀬道三から教わったと言われる。
- 寿命1年といわれる鈴虫を丹念に育てることによって3年近く生かした。このことから「人間も養生すれば長生きすることができる。俺も鈴虫に倣って(当時の平均寿命の三倍の)120歳まで生きてやる」と豪語したことがある。
主な親族
松永長頼(内藤宗勝)
久秀の弟、内藤如安の父。謀略家の兄に対し、戦上手の武勇に優れた武将だった。
兄よりも早くに主君・長慶の信任を得て出世も先んじており、久秀の出世は長頼の活躍によるところも大きかったとも言われている。
国人領主が下剋上で勢力を拡大していた丹波国侵攻に際しては、守護代内藤氏を掌握して影響力を拡大、国人勢力を抑え、丹波半国を実質的に支配するほどの勢いを見せた。
しかし、「丹波の赤鬼」こと赤井直正との戦いで戦死している。
松永久通
久秀の嫡男。久秀の名代として三好三人衆と共に京都に攻め込み、義輝弑逆を実行した。
家督を譲られて後も父と共に転戦したが、信貴山城の戦いで自害した。
創作
松永久秀(信長の野望シリーズ)
そこそこの武勇に最高ランクの統率・知略・政治を有する非常に有能な武将なのだが、「義理」のパラメータが最低クラスなため裏切りやすい武将として設定されている。
引き抜きなどで配下に出来ればかなり頼もしいのだが、裏切らせないよう常に細心の注意が必要となる。
また、シリーズを通じて「見るからに悪人面」な顔グラをつけられており、シリーズのファンからは上記の要素を含めて恐れられつつも愛されている。
通称「ギリワン」(義理のパラメータが多くの作品で最低値の「1」なため。1でない作品でも義理パラメータの最低値は皆勤である)
松永久秀(戦国大戦)
CV:浜田賢二'スーパーレア)
冷酷で残忍な美青年として登場。ゲーム内では三好長慶が存命中であるため、まだ素直に三好家(総合的には「他家」)に属している。レアリティは最高のSR(スーパーレア)の鉄砲隊ゅ「他家」では唯一の鉄砲隊)、コスト2.5の能力値が武力8、統率9と高く、特技も「制圧」「魅力」「伏兵」と豪華な、大変に優秀なカード。
彼の持つ計略『平蜘蛛の釜』は自身を犠牲にする代わりに自城前にいる敵にまとめて大ダメージを与えるという防衛専門の自爆計略。当然彼の最期に因んでの物だが、要は自分を犠牲にして味方を守る計略なので、ある意味らしくないと言えばらしくない。一方で「うしおととら」や「からくりサーカス」が代表作である漫画家・藤田和日郎が描いた別バージョン(戦国数寄カード)も存在する。イラストとしてはSRと違い、平蜘蛛茶釜を抱えて今にも最期を覚悟している、鬼気迫った落ち武者の老人といった印象である。
因みに戦国数寄カードの方は武力・統率、計略がSRと同じだが、兵種が槍足軽に変わっており、また特技は「気合」のみとなっている。SRと比べるとやや見劣りするような感じではあるものの、乱戦になる可能性が高い槍足軽にとって「気合」があるのは大変にありがたく、自身の武力の高さも相俟ってそうそう簡単に撤退に追い込まれず、しぶとく戦場で踏ん張れる仕様になっている。
『神仏を畏れるな。我を恐れよ……!』(SRのカード裏の台詞)
『平蜘蛛が欲しければ 地獄まで共をせよ……!』(戦国数寄カードの裏の台詞)
因みにこのゲームにおいてSRの方は時折渾名として「ビビンバ」と呼ばれることがある(伏兵解除時の台詞である『ククククク……、良い気分だ』が、やや声がこもっているために『ククククク……、良いビビンバ』と聞こえるのがその理由)。
また、『1477-1615 日ノ本 一統への軍記』では、カード裏のテキストに『著名な梟雄だが、主君・長慶の存命中は室町幕府との折衝を行うなど、誠実に職務を果たした』と記されており、最新の研究成果を取り入れたものとなっている。
松永久秀(殿といっしょ)
ダンディな美貌を持つナイスミドル(そのため、超悪役顔を期待していた猿顔代表からは「こんの裏切者ー!!」と激昂された)。
裏切ることこそが生きがいと考えているサイコパスであり、「裏切る」と予告をしてばっくれる、「裏切りの手法」なる本を詐欺まがいの方法で販売するなど、裏切ることにあらゆる知恵を尽くしている。