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山口多聞の編集履歴

2018-05-02 19:47:01 バージョン

山口多聞

やまぐちたもん

山口多聞とは、大日本帝国海軍の軍人の一人である。

曖昧さ回避

  1. 実在した、大日本帝国海軍の軍人。
  2. 平野耕太の漫画「ドリフターズ」の登場人物としての1。

プロフィール

性別男性
生年月日1892年8月17日 - 1942年6月6日
生誕地東京市小石川区

概要

山口多聞とは、大日本帝国海軍軍人である。

山口家の祖先は戦国時代北陸の武将で関ヶ原の合戦で加賀大聖寺城で討死した山口宗永まで遡ることができる。

「多聞」という名前は、楠木正成の幼名「多聞丸」に由来する。大元は戦神・毘沙門天の異名の多聞天より。


旧松江藩士の山口宗義の三男として生まれ、海軍兵学校を経て大日本帝国海軍の軍人となった。兵学校は次席で、海軍大学校は首席で卒業したエリート。水雷学校高等科学生の課程を履修している。


第一次世界大戦では第二特務艦隊に属し地中海での連合国艦船護衛の任にあたった。


日中戦争では、蒋介石政権を壊滅させるため、中華民国の臨時首都である重慶戦略爆撃である重慶爆撃を決行。絨毯爆撃の主張に各国の大使館があるので慎重な態度を見せた。当初は護衛戦闘機がないまま爆撃機を出撃させたため大きな損害を出し「人殺し多聞丸」と呼ばれた(後に航続距離の長い零式艦上戦闘機が投入され護衛をつけられるようになった)


太平洋戦争初の戦いであるハワイ海戦では南雲機動部隊隷下の第二航空戦隊司令官として空母蒼龍を旗艦に参加した。

その後、南方海域での緒戦で戦果を挙げた後、1942年ミッドウェー海戦では飛龍を旗艦として参加、赤城加賀・蒼龍の三空母が撃破されたのち、飛龍単艦を率いて孤軍奮闘したが、アメリカ軍の攻撃を受け飛龍もまた大破、雷撃処分の際に加来止男飛龍艦長と共に退艦を拒否し、1942年6月6日飛龍と運命を共にした。


エピソード

  • ハワイ海戦は当初の作戦では航続力の問題から山口が指揮する二航戦の飛龍、蒼龍は出撃せず、搭載機とパイロットだけ加賀、翔鶴、瑞鶴に預ける案だった。これを知った山口は「厳しい訓練を課した部下と飛行機だけ戦わせて、母艦と一緒に残されては部下に会わす顔がない。作戦後は置き去りにしてくれて構わない」と反対し、飛龍と蒼龍(と赤城)の出撃が決定した。
    • 一部の著書で、ハワイ海戦で攻撃隊が空母に帰還した時、山口が司令長官の南雲忠一に対して再出撃の意見具申を行ったと書かれる事がある。しかし幕僚らの証言によると、山口は「第二撃準備完了」と暗に出撃を催促する信号を送りはしたものの、再攻撃を望む参謀やパイロットに対して「南雲さんはやらないよ」と返し、意見具申までは行わなかったと言う。(二航戦の石黒通信参謀によると山口司令官が第二撃をやってもらいたいと切実な気持ちで信号を送った状況を見たとの証言もあるが、信号は形式に則って発信したもので第二撃の意は無かったとする説もある。)
    • 山口が真珠湾の米軍地上施設(燃料施設や修理施設)を反復攻撃により徹底的に叩くべきと提案したのは、作戦中ではなく、作戦前の図上演習や会議の場のことである。結局この提案は採用されず、奇襲成功後、直ちに艦隊は引き上げる計画に決まった。山口が「南雲さんはやらない」と零したのはこれらの経緯から反対される事を知っていたからだった。
  • ミッドウェー海戦では、2度目の艦載機の兵装転換をせずに「現装備のまま攻撃隊直ちに発進せしむを正当と認む」と主張するも、護衛につける機体がいないことや帰還した攻撃隊の収容などから又も南雲忠一に拒否され、その結果日本空母は兵装転換中に攻撃を受けるという致命的なミスに繋がった。もし山口提督の進言が聞き入れられていたら、また違った戦いになっていたかもしれない。
    • その時装備していたのは対地用の爆弾だった為、威力不足で撃沈出来ずに無駄に攻撃隊が全滅していた可能性も考えられるが、アメリカ海軍歴史センターの所長(当時現役)の様に「護衛がついてなくても全滅することはなかったと考えられる。陸用爆弾でもアメリカ空母には多大な損害を与えたと思う」と考えた人もいるのも事実である。
    • そもそも山口も対地用の爆弾で空母を撃沈できると期待してはいなかった。「飛行甲板を使用不能にするくらいできる」と言う考えで、一度の全力攻撃による敵の撃沈に拘って出撃を遅らせてはならないと言う進言だった。
    • 2度目の兵装転換のエピソードが有名なため隠れがちだが、実はその1時間前、最初の兵装転換命令(対艦船攻撃用の装備がしてあった艦載機を、対地攻撃用に兵装転換した命令)が出された時も南雲中将に対して「敵空母出撃の算あり。考慮せられたし」と進言していた。2度目の兵装転換後の山口の進言は、たとえ聞き入れられたとしても、そこから日本側が勝利するには難しいタイミングだったが、最初の兵装転換後の進言が聞き入れられていたら、勝利の可能性はまた違っていた。山口少将が敵空母出撃の算ありと判断した理由については襲来した敵機の中に単発雷撃機を確認したためとされる。南雲司令部では5時55分ごろに利根1号機からの「敵編隊が艦隊へ向かった」との連絡を受け、6時40分ごろに襲来すると予想。この敵編隊はミッドウェー島との距離からミッドウェー基地からの来たものと判断した。
  • また、ミッドウェー海戦では日本軍の一段索敵は不十分であり、敵空母の発見が遅れたが、ミッドウェー海戦の出撃前日に開かれた作戦会議の場で、山口は一段索敵では索敵機数が足りないと主張し、改善を求めていた。
    • セイロン沖海戦中から索敵機が足りないと進言していたとの証言もある。アメリカの歴史学者ゴードン・ウィリアム・プランゲは南雲司令部が偵察機の増加をためらうようになった理由の一つとして「インド洋作戦で(セイロン沖海戦)で複数回偵察機が機位喪失したため艦隊が電波を出し艦隊位置を明らかにした」と著書で述べたが、千早正隆によるとプランゲはインド洋作戦でそもそも南雲機動部隊が敵軍に待ち伏せされていた事や、日本艦隊で索敵の不備が発生していた事を見落とすなど、インド洋作戦の研究が不十分であるとの指摘がある。
    • 南雲機動部隊首脳部や索敵計画担当の参謀長によれば、索敵の改善要請を退けた理由は「敵空母が攻略作戦中に現れるとほとんど考えていなかった」、「索敵機を増やすには戦闘用の機体を偵察用に割かねばならなくなる」であったと言う。海戦後、彼らは「密度の濃い索敵とするべきであった」と反省の弁を述べる事になった。
  • 航空機部隊の鬼教官としても知られ、その恐ろしさから「人殺し多聞丸」やら気○い多聞丸」など、エライ言われようだったとか。どれだけ怯えるかと言うと、当時の海軍の花形は戦艦であり、その矜持もあって苛烈な訓練で知られていたが、戦艦乗りでさえ空母の訓練にはドン引きしたほど。
    • ただしこれほどの訓練を課したからこそ南雲機動部隊は太平洋最強の航空部隊となり得たのであり、実際彼の没後日本海軍の航空部隊は凋落の一途を辿っている(もっとも、日米の戦力差を考えると戦争の長期化に伴う航空部隊の損耗は必然であり、山口が生きていても没落は避けられなかったと思われるが)。
    • ミッドウェー海戦が命令された時、当初、山口は太平洋のアメリカ艦隊を撃退できると乗り気だったが、兵隊の訓練が進んでいないことを理由に結局は反対した。厳しい訓練を部下に課した事で有名な山口だが、根性論者ではなかった。
  • 航空機や空母運用に精通している様に書かれる山口だが、その経歴の通り元々は航空畑の出身ではなかった。中国戦線で多くの被害を出して「人殺し多聞丸」の汚名を被った事がある様に、当初は全くの素人だった。ミッドウェー海戦などで高い評価を受けるようになったのは、航空機部隊の将官として相応しくなるよう本人が学習と努力を重ねた結果である。
    • 部下に求めたのと同様に、自身も常に向上のための努力を忘れない人物だった。ハワイ海戦、セイロン沖海戦の大勝利の後も、山口は現状に満足せず、作戦研究会で日本航空艦隊の編成について新しい構想を提案していた。
    • 1942年2月に宇垣少将や大西少将らに兵力整備などについて意見具申書を提出しており、主な内容は、航空機は大型機(爆弾搭載量2トン以上の大型爆撃機)300機、中型機(陸攻)3000機、遠距離戦闘機300機、零戦4000機、艦攻1000機、艦爆1000機などを昭和18年度末までに整備。艦艇は、搭載機数99機の空母12隻、潜水艦300隻、防空艦50隻などを建造するという壮大な物だった。作戦進行についても1943年1月までにハワイを攻略することを目標に意見を出していた。
    • 南雲機動部隊は、セイロン沖海戦においても帰還した攻撃隊への補給中に敵機の襲来を受けるミスを犯していたが、山口はそれを教訓として、二航戦の空母で兵装転換にかかる時間を調査し、兵装転換にかなりの時間が必要になると言う結論を南雲司令部に報告して指揮の改善を促した。それと同時に、不測の事態にも対応できるよう、二航戦で兵装転換の猛訓練を積んだ(・・・が、この訓練はミッドウェー海戦の1ヶ月前に海軍で人事異動があったため、空振りに終わってしまった)。
  • かなりの大食いとしても知られた御仁。
    • ご飯のおかわりは平常運転。(一般人なら一膳で満腹レベルの量目を)
    • 戦艦大和に招かれた際、大和自慢のフランス料理のフルコースを平らげて「美味いが量が少ねぇ」と苦言を呈した。(無論、量は軍人向け)
    • 海軍学校からの同期である五十嵐恵と二人で料亭に行った際、注文した料理が四人前も来てしまったことがある。五十嵐も軍人としてそれなりに食うのだが、五十嵐はその前に一食上がっていたため、注文を確認。しかし横から多聞は「俺が三人前食うつもりだったんだ、勝手に減らすな」と言ったらしい。もちろん全部平らげた。
  • 女好きで有名であった山本五十六とは対照的に、かなりの愛妻家であり、戦地から数百通のラブレターを贈っている。
    • また、乗員退艦時に妻へ贈り届けるよう乗組員に託した軍帽は、親族の厚意もあり現在は広島県江田島市にある第一術科学校 教育参考館に保存されている。
  • 昭和18年当時連合艦隊司令長官であった山本五十六の移動計画を知り、抹殺すべきかどうかを判断するためアメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツが部下のレイトン情報参謀に「日本には彼以上に優れた指揮官はいるのか」と尋ねたところ、レイトンは「日本には山本よりも優れた優れた指揮官が一人いる。山口多聞という男だ、だが彼はミッドウェーで戦死した。だから山本と同じぐらい有能な指揮官は日本にはいない。」と返したという。アメリカ海軍の太平洋戦争戦史を編修したサミュエル・モリソン元アメリカ海軍少将は、「彼(山口多聞)は卓越した司令官で、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の後継者に豫定されていたと言われる。」と記している。
  • 相撲好きでもあり、伊勢艦長時代、兵員鍛錬の一環として取り入れられた相撲の為に甲板上に本格的な土俵を作らせる程であったという(他の艦では精々マット敷きの土俵を用いていた程度)。
    • でっぷりとした巨漢だが、運動神経は非常に高く、大抵のスポーツは得意だったらしい。軍隊に入り、将官に出世した後も、登山行軍で若い兵士が疲れる中、山口は元気に山を登って行ったと言う逸話がある。

創作における山口多聞

艦隊これくしょん

艦船擬人化SLGなので直接登場はしないが、正規空母飛龍軽巡洋艦五十鈴がその存在に言及している。

二人とも彼を乗艦させたことを誇りとしており、特に飛龍はMVP獲得時に必ず「ねぇ多聞丸、見ててくれた?」と想いを馳せているため、飛龍の旦那もしくは父親といった見解をする提督も多い。


【落書き】飛龍さんと多聞さん

多聞丸と艦これの飛龍さん。


ドリフターズの山口多聞

ミッドウェー海戦に敗れ、飛龍が大破・航行不能に陥っていたところで、漂流物(ドリフターズ)の一員として、紫によって飛龍ごとドリフ世界に招かれた。

世界を越えてからはグ=ビンネン商会に客員提督として遇され、艦載機の代わりにグリフォンを率いた航空戦術でオルテ帝国を悩ませている。

なおグ=ビンネン商会は飛龍に使用されている技術にも着目しているらしく、飛龍を模して建造し、「飛鷹」「隼鷹」と名付けた二隻の木造空母=鷹母(ようぼ)の運用も行っているようである。


ちなみにドリフ世界に呼ばれ、グ=ビンネン商会に世話になり始めてからも山口は陸の住宅ではなく大破したまま近海に停泊している飛龍で寝泊りしており、その中で「なあ飛龍よ、大日本帝国海軍は俺とお前だけになっちまったなあ」と飛龍に語りかけており、後に菅野直スキピオ・アフリカヌスと合流した際に菅野に他の乗員について問われた際、「誰もいない。死体も残ってない」と答えていることから、上述エピソードで共に退艦を拒否した加来艦長ほか、ミッドウェーでともに戦った飛龍の乗員は山口と飛龍以外全員がドリフ世界に招かれず鬼籍に入った模様。


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落ちましたー


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