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つばめ(列車名)の編集履歴

2019-01-05 21:03:17 バージョン

つばめ(列車名)

つばめ

つばめとはJR九州の運行する九州新幹線の列車名である。

ここではかつての国鉄が運行していた「燕」や、新幹線より前に運行されていた「つばめ」について説明する。


戦前の超特急「燕」

1930年10月より運行開始。運転区間は東海道本線東京 - 神戸間。最初の愛称つき特急である「富士」が、東京 - 大阪間で10時間かかっていたのに対し、この「燕」は8時間20分であった。当時としては驚異的な速度であり、その俊足から「超特急」と呼ばれた。1937年には姉妹列車として「」も登場した。


当時の東海道特急は、「富士」が一等・二等のみで、また「」が三等のみで構成されていたのに対し、「燕」の場合は一等・二等・三等すべてが連結されていた。幅広い客層を獲得しようとしている姿勢がうかがい知れる。牽引する機関車は、初の国産パシフィック機C51、および流線型カバーのついたものも存在したC53C55、東京-沼津間の電化区間ではEF55などが担当した。


しかしながら、太平洋戦争の激化に伴って1943年10月には廃止されてしまった。


戦後の特急「つばめ」

戦後初の特急として、1949年に東京 - 大阪間で「へいわ」が運行を開始。その翌年に愛称公募によって「つばめ」と改称された。1950年からはリクライニングシートを装備した特別二等車が連結され、さらに1951年からはスハ44系が登場、国鉄の戦後を代表する姿となった。このときの牽引機関車はC59C62EF58であった。


1956年には東海道本線の全線電化が完了し、「つばめ」「はと」をはじめ東海道筋の特急は、専用のEF58とともに淡緑一色に塗られ「青大将」と呼ばれた。このときの全線電化で東京-大阪間は7時間半となった。


しかし1958年に151系電車特急「こだま」が登場すると、設備面で見劣りがする客車列車も、新型の電車列車に置き換えることになった。

かくして1960年、「つばめ」についても151系に置き換えとなり、それまでの展望車に代わる目玉としてクロ151形「パーラーカー」を連結した。1962年には、2往復運転されていた「つばめ」のうちの1往復が、広島まで乗り入れたが、「セノハチ」こと瀬野-八本松間ではパワー不足となったため、電車特急でありながら補助機関車に頼らざるを得なくなった。


九州連絡特急としての「つばめ」


1964年に東海道新幹線が開通すると、「つばめ」・「はと」の両列車は東海道新幹線と接続して新大阪 - 博多間を運行する列車となった。ここで既に1953年から山陽本線で活躍(当初京都 - 博多間、後に長崎・宮崎へ延長)していた「かもめ」と再び肩を並べることとなった。


車輌は151系を転用したが、下関-博多間は交流電化であるため直流電車の151系をそのまま入線させることが出来ず、EF30ED73によって牽引された。なお、機関車の次位には電源車としてサヤ420(電源車として完成予定時期を繰り上げ製造された421系。のちに改造されモハ420-21・22・23となる)が連結されていた。


1965年には運転区間を延長して名古屋-熊本間の運転となった。同時に交直流電車の481系に置き換えられるが、481系は勾配性能も持ち合わせていたためにセノハチにおける補機連結もなくなり、全区間自力での運行が可能となった。歴代「つばめ」において、もっとも長距離を走ったのがこの名古屋-熊本時代である。1968年の「ヨンサントオ」改正からは「月光形」こと581系・583系も使用されるようになった。


1972年の山陽新幹線岡山開通時には岡山-博多・熊本間のエル特急となり、車輌は485系・581系・583系を使用した。このうち581系・583系の受け持つ運用については翌年に岡山-西鹿児島間での運転となっている。しかし1975年に山陽新幹線が全線開業した「ゴーマルサン」改正に伴い、「つばめ」「はと」は廃止されることになり、国鉄時代の定期列車としては幕を閉じることとなった。


ただし、非定期の「つばめ」に関しては、1981年、および1982年の7月に東京-大阪間でリバイバル運行がなされた。このときの使用車輌はEF58(61号機)と、14系客車であった。展望車はおろかグリーン車の連結こそかなわなかったものの、食堂車であるオシ14形が連結された上で、当時の運転形態が再現された。


九州特急としての「つばめ」

JR九州の「つばめ」は、それまで運行されていた鹿児島本線の特急「有明」のうちの西鹿児島(現鹿児島中央)発着の便を1992年7月に分離して誕生した。車輌は、このダイヤ改正に合わせて登場した787系であり、同系列は「つばめ形」とも呼ばれるようになった。大抵、特急形電車には、最初にデビューした列車の名が冠せられることが多い(例:151系は「こだま形」)が、純然たる「つばめ形」電車は今まで存在していなかった。このため787系が初ということになる。運転開始当初は783系「ハイパーサルーン」も共通の運用に当たっていたが、1996年よりすべての「つばめ」が787系での運用となった。同列車にはビュッフェも連結されていた。

なお、あまりの格の高さから、JR九州は復活する許可をJR各社から取ったという。それだけに車両にはJR九州の本気が出ており、グリーン車、ビュッフェ車を連結した堂々9両編成と、鉄道ファンも文句無しの内装である。

基本的に博多~西鹿児島で運行されていたが、1往復は門司港発着で鹿児島本線を(西鹿児島~鹿児島間を除き)全線走破していた。また1往復のみ夜行便として「ドリームつばめ」が運行されていた。


九州新幹線としての「つばめ」

2004年に九州新幹線が新八代 - 鹿児島中央間で開業すると、「つばめ」の名は新幹線へと引き継がれた。これにより従来の「つばめ」は、運転区間を短縮の上で、新幹線接続列車「リレーつばめ」となった。九州新幹線「つばめ」には800系が、「リレーつばめ」には全車座席車に改装された787系がそれぞれ使用され、新八代駅では新幹線駅に「リレーつばめ」が乗り入れる形で同一ホームでの乗り換えが実現された。

「リレーつばめ」への転換時に、「つばめ」とともに「有明」も毎時1本が転換され、新八代行きに延伸された。これにより、「つばめ」時代は殆ど停車列車が少なかった二日市・羽犬塚・瀬高・荒尾・長洲・玉名・上熊本への停車列車が増加している。

在来線時代は熊本~西鹿児島間では日奈久・佐敷(水俣発着有明も停車)ならびに湯之元(夜行便「ドリームつばめ」のみ)に追加停車する列車があったが、基本的に全列車の停車駅が同一であった。しかし新幹線となってから全線開業までは、ノンストップ便・川内のみ停車する便・川内と出水に停車する便・各停便に分かれていた。


その後、2011年3月に九州新幹線は全線開業を果たすが、速達列車の愛称は「さくら」「みずほ」に決まったため、「つばめ」は九州新幹線における各駅停車タイプの列車となった。また800系には当初「つばめ」をあしらったシンボルマークがあったが、全線開業に合わせ「800」を図案化したマークに変更され消滅、また787系「リレーつばめ」についても、使命を終えたために消滅している。


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