概要
直流区間である山陽本線下関駅(貨物は幡生操車場)からの関門トンネルと交流区間である門司駅(貨物は東小倉駅)を結ぶために1960年から1968年にかけて製造された世界初の量産形交直流電気機関車である。
(門司駅構内の交流化によって不要になる、既存の直流機EF10を置き換え、他線の輸送力増強に充てる目的もあった)
車体
最大の特徴は、トンネル内から滴る海水で車体の腐食を防ぐため、外板がステンレス鋼の車体(いわゆるセミステンレス構造)になっていることである(ちなみに言えば、EF30はありそうで他に例が無い国鉄、JRの機関車で「全車両がステンレス製」の形式である)。
機器
当時は大出力半導体技術が発展途上であったため、シリコン整流器の素子数は、量産が進むごとにつれ小型小容量のもの多数から大型大容量の物少数へと変遷していった。
駆動方式は空転を極力防ぐため1台車1電動機方式のWN駆動を採用したが、これは後続がないことから成功したとは言い難いようだ。
また、交流区間での運転はわずかなため、交流区間での出力は非常に小さい(定格出力が直流区間で1800kwに対し交流区間は450kwしかない)。最高速度自体も85km/h(交流区間は35km/h)を超えることはなく低速運転が主体の特殊機であり、貨物運用のために重連総括制御装置が併設されている。
またSG・EGなどの暖房装置は搭載していないが、実用上の問題は無かった。(むしろ当時の客車に使用されていた蒸気暖房は、機関車交換時の事故防止のため、機関車を交換する相当前から蒸気供給を止める必要があり、関門間だけの運用では完全に無用の長物以外の何物でもなかった)
製造
1960年に試作機の1号機が三菱電機・新三菱重工で製造され。最初は米原機関区に配属されて北陸本線で試運転がなされた。
8~12号機が日立製作所
13~17号機が東京芝浦電気(現:東芝)(メイン画像の16号機はこのグループ)で製造された。
1号機と量産機とは外観と車体長が異なるのが特徴である
(1号機はステンレス平板に赤帯(1969年頃に赤帯を撤去)、2号機以降はステンレスコルゲート外板)その後の列車増発につき1968年まで製造が継続されている。
特に最終生産の3両(20~22)は、側窓や標識灯、屋根上の機器等、各所に改良点がある。
その後、関門間向けの機関車の増備はEF81形300番台に移行した。(当初は重連に対応していなかったため、ほぼ旅客列車の牽引にに専従した)
運用
1961年の鹿児島本線の交流電化(それまでは門司駅構内も直流電化であった)から活躍を始めた。旅客列車は単機で、貨物列車は重連で運用された。
しかし、運用の減少で1978年に試作機の1号機が廃車、残った量産機も老朽化が進んだが、特殊用途故後継機は誕生せず、本格的な置き換えは1985~86年に各地で余剰化したEF81の転入を待つことになる。
その間大きな改造は無かったが、外観上目に付く変化としては、1970年代半ばに向かって右側(2-3位・運転台側)の標識灯が、電球交換の容易化のために外バメ型に改造されたこと、晩年になって一部の車がシールドビーム(2灯)化されたことぐらいである。さらに1984年のブルートレインヘッドマーク復活のため、貫通扉にヘッドマークステイが新設されている。(現在保存されている20号機をみると、ステンレス鋼ではなく一般鋼に銀色塗装した物を後付けしたものであることが確認できる)
結局、1986年にEF81に400番台(0番台を重連対応に改造した機)が登場、300番台も重連対応に改造され、国鉄の分割民営化を待たずに1987年3月に全機引退した。
その際1987年3月29日にさよなら運転が行われたが、6号機と21号機との重連で行われ、普段の運用での最南端駅である東小倉駅を越えて遠賀川駅まで運転された(門司港→遠賀川→下関→門司のコースで運転された)。なお、さよなら運転に際し交流区間では重連でも力不足となるためEF81形304号機が補機を務めた。
保存車
JR九州では3号機を動態保存機として大分運転所に残したが、後に解体され、前頭部のみ門司港の九州鉄道記念館に保存された。JR貨物でも21号機が吹田機関区に保管されていたが、1998年頃に解体された。現在完全な形で現存するEF30は、北九州市門司区の和布刈(めかり)公園に保存されている1号機と、群馬県安中市の碓氷峠鉄道文化むらに保存されている20号機のみである。九州に量産機が保存されず、関門トンネルとは無縁の群馬に保存されているのは何とも皮肉である。
関連タグ
EF81後に同じメーカーで製造され同じ機関区に配置された交直流電気機関車その1
EH500後に同じメーカーで製造され同じ機関区に配置された交直流電気機関車その2
EH800後に同じメーカーで製造された海底トンネル専用電気機関車つながり