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マハトマ・ガンディーの編集履歴

2020-06-21 01:04:11 バージョン

マハトマ・ガンディー

まはとまがんでぃー

19世紀末〜20世紀前半のインドの弁護士、思想家、政治運動家。

概要

1869年10月2日~1948年1月30日

本名は「モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)」。「マハトマ」とはサンスクリット語で「偉大なる魂」という意味。日本語では「マハトマ・ガンジー」とも表記する。


生涯

イギリス植民地下のインドの地方藩王の宰相の家に生まれたが、少年時代は融通の利かない性格で、小学校の成績は悪く、おまけにヒンドゥー教の戒律を破ってタバコは吸う、肉食はする、金を盗むととんでもない不良少年だった。

13歳で結婚し、18歳にロンドンへ留学して弁護士となった。1893年、イギリス統治下の南アフリカで弁護士業を始めたが、列車の一等車への乗車を拒まれて荷物と一緒に放り出されてしまい、これをきっかけに人種差別への反感を覚え、差別撤廃に向け人生を歩み出した。


トルストイの小説や聖書の影響で「非暴力」を考え出し、南アでの人種差別撤廃運動を展開して、投獄を繰り返しても続けて一定の成果を見せ、1915年にインドに帰国した。

イギリスに将来的にインドの自治制を求め、第一次世界大戦でのインド人志願兵運動にも協力したが、イギリスに約束を反故されてしまい、宗主国に協力を求めない独立運動を信念を抱いた。


1920年にインド国民会議に参加して「不服従運動」を提唱。インド製綿製品を推奨するイギリス製綿製品不買運動を展開し、投獄されても運動を続け、1930年にはイギリスによる塩の専売や税に反対する「塩の行進」を実行。この時、治安兵士にどんな暴力を受けても反撃せず逃げぬことを参加者に求め、運動は拡大した。

1940年代には第二次世界大戦が起こり、「大東亜共栄圏」を掲げる日本スバス・チャンドラ・ボースやA.M.ナイルが協力していたが、ガンディーは覇権主義的な日本の行動を疑問視し、これに協力しなかった。


1945年に日本が連合国に降伏して第二次大戦が終結すると、戦勝国イギリスは国力が衰退し、植民地管理が困難となった。日本軍に協力したインド人将官が戦犯裁判にかけられた事を機にガンディーはインド独立運動の号令を発し、1947年8月15日、イギリスはインドの統治権放棄と独立を認め、ガンディーはジャワハルラール・ネルーとともにインド独立を宣言した。

しかし、インド内でのイスラム教徒がヒンドゥー教徒への反感を強め、イスラム教国家・パキスタンが分離独立してしまった。ガンディーはヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和を訴えて、断食で抗議したが、ヒンドゥー教側からは譲歩しすぎていると批判も起こり、ニューデリーの自宅前で狂信的なヒンドゥー教徒が撃った銃弾により暗殺されてしまった。享年78歳。


火葬されて遺灰はガンジス川へ撒かれた。通常インドでは火葬された遺灰は川に流されるため墓地は無いのだが、せめて場所だけは残しておこうとして、彼を祀った『ラージ・ガート』が造られた。

彼の生き方を表すかのような質素な作りとなっており、敷地の中央には黒大理石の慰霊碑がある。


思想

ガンディーが掲げた「非暴力」はヒンドゥー教・仏教キリスト教にも通ずる思想とし、暴力の無意味さを訴えてきた。非暴力は「無抵抗主義」とは異なり、暴力に対して暴力で抵抗せず、交渉など目的行動をやり続けることで抵抗するとして、そのためならをも恐れなかった。

また、「非暴力は暴力より勝っている」とし、「許しは罰よりも勇気が必要」と述べているが、一方で「暴力と臆病どちらを選ぶか」という問いに対しては「暴力を選ぶ」とも答えている。

禁欲生活の徹底を推奨し、西洋の近代的な科学技術を否定し、自生活でも菜食主義で通したが、徹底過ぎる禁欲と、反近代文明的な姿勢に批判も起こっていた。


現在、人類史上有数の偉人に数えられ、インドではジャワハルラール・ネルーに並ぶ偉人に称えられているが、ガンディーの死後、ネルーが採った近代化政策はガンディーの思想と全く相反したものであり、ガンディーの非暴力思想を高く評価しつつも、反近代文明は非現実的という考えを持つ人は多い。


ガンディーの非暴力思想の影響受けたのが、アメリカ黒人の地位向上と公民権運動を展開したキング牧師である。


ダリット、アウトカースト(不可触民)と呼ばれる人々を「ハリジャン(神の子、ハリとはヴィシュヌの異名)」と呼んだことでも有名。

しかし、ダリットからはむしろその呼称を拒絶されている。不可触民解放運動とインド仏教の指導者ビームラーオ・アンベードカルは議会でこのような強い言葉で「ハリジャン」呼称を非難している。「最近ではガンディーが現れ、我々をハリジャン(神の子)と名づけてくれました。最悪の悪ふざけとして私たちはもちろん拒否しています。我々が“神の子”なら、ブラーミンは何と呼んだらいいのか、“悪魔の子”とでも呼ぶべきなのか」

ヒンドゥー教徒であってもヒンドゥー寺院に立ち入れないばかりか、井戸や貯水池の利用を拒否され、見れば目が汚れるとされ、居場所を上位カーストに教える為に鈴をつけさせられる、という屈辱の扱いを受けてきたのがダリットであるが、ガンディーのダリット観は言うなれば四カーストの下の第五カーストであった。

自分たちを蔑視し差別するインドは自分の国でない、というアンベードカルは分離独立選挙に出ようとするが、ガンディーは過酷な断食を行い、自分の命を人質にして彼にそれをやめさせた。ちなみに、ガンディーはイスラム教徒の分離独立選挙は認めている。


名言

  • 力によって得られた勝利は敗北に等しい。一瞬でしかないのだから

彼の有名な一説だが、一方で彼はこうも説いている。


  • 心の中に暴力性があるのなら、暴力的になった方がよい、無気力を隠そうと非暴力を口実にするよりは

彼の目的はあくまでも祖国インドのイギリスからの独立であり、そのためなら戦うこともいとわなかった。

余談だが、この一説はアクション映画特攻野郎Aチーム』での1シーンでも語られている。


更に、


  • 臆病と暴力のどちらかを選ばなければならない場合は、私はむしろ暴力を薦める。インドがいくじなしで、恥ずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統をすてるよりも、私はインドが武器を取ってでも自分の名誉を守ることを望んでいる

とも言っており、必要とあらば最後の手段として、死を覚悟して武器を取ることも厭わなかった。


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アサシンクリードエデンの果実の継承者のひとり。

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