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孫皓の編集履歴

2021-11-08 00:51:43 バージョン

孫皓

そんこう

呉最後の皇帝であり、三国時代最大の暴君として知られる。

孫権の第三子・孫和の長男。

字は元宗。幼名は彭祖。母は何姫。

正妻・滕皇后は滕胤の親族。

呉の最後の皇帝で末帝とも言われる。

生没年:242年~283年

ちなみに叔父の二代皇帝・孫亮より1歳上である。


※以下の記述の一部はニコニコ大百科同名記事からの引用。

不遇な少年時代

孫皓が生まれた頃、父・孫和は長兄・孫登の遺言もあり孫権から皇太子に立てられた。しかし、異母姉の孫魯班により生母・王夫人らと共に「二宮の変」に巻き込まれてしまう。そして赤烏十三年(250年)皇太子を廃され、南陽王として長沙においやられた。

建興二年(253年)、太傅・諸葛恪が孫峻に殺害される。孫和の正妻・張妃(張昭の長男・張承の娘)の母が諸葛恪の妹だったため同母兄弟の張震を始め張一族も諸葛一族同様三族皆殺しにされる。さらに諸葛家や張家と繋がりの深い孫和夫妻も連座させられ王位を剥奪され新都に追放され自殺に追い込まれた。その後、孫皓は異母弟たちと共に実母・何姫に育てられた。

呉宮廷は二宮の変以来暗闘の嵐だったが、廃太子孫和の庶長子・孫皓はそれらに関わることもなかった代わりに無位無官の没落皇族として不遇の少年時代を送った。しかし、流れが変わる出来事が発生する。


烏程侯に封じられる

五鳳三年(256年)、孫峻は急死し従弟の孫綝が跡を継ぐ。孫綝は呂拠・滕胤を滅ぼし朱異を殺害するなど横暴を極めた。

太平三年(258年)9月。皇帝・孫亮は事実上の後見人になっていた孫魯班や全皇后の父・全尚や兄・全紀らと孫綝暗殺を計画。しかし計画は露見し全紀は自害し、魯班は予章に流され、全尚は追放後に殺害された。孫亮も退位に追い込み、新たに琅邪王・孫休を即位させた。

父や祖母を陥れた魯班が失脚したこともあり、孫和の息子である孫皓たちは皇族として復権を果たす。孫休により孫皓は烏程侯に封じられた。ちなみに烏程侯はかつて曾祖父の孫堅が漢王朝から封じられたものでもある。


同年11月。孫休・丁奉らは策をめぐらし孫綝を殺害し一族を滅ぼす。孫休は即位前からの腹心である濮陽興と張布らと共に親政を始め、混乱が続いた呉の安定をめざしてゆく。

一方、孫皓は烏程県令であった万彧と親交を結んでいる。また人相見に大出世するとも言われ秘かに大志を抱いていた模様である。


皇帝になる

交趾郡での反乱、更には蜀の滅亡と呉が危機的状況を迎えていた最中の永安七年(264年)、皇帝孫休が30歳の若さで急死した。

孫休の子たちが幼かったことを懸念した濮陽興と張布らにより、次期皇帝候補として「孫策の再来」という評判が立っていた当時23歳の孫皓に白羽の矢が立ち即位。皇族として復権を果たしてから6年目にして孫皓は帝位にまで昇った。


呉国中の期待を集めて即位した孫皓は最初のうちは善政を敷くが、それは続かずたちまち悪政を敷き暴虐ぷりを恣にし人々を落胆させていった。


三国志「呉書」本文に記されている孫皓の暴虐さは以下の通り。

宴席ではいつも皆を酔いつぶれるまで飲ませ、酩酊時の失態や失言を記録させ、厳罰を与えた。

後宮にはすでに数千人の女性がいたが、更に新しい宮女を入れ続けた。

宮中に川を引き入れ、意に沿わぬ宮女は殺害してその川に流した。

人の顔を剝いだり、目を抉った。

民衆を労役にかり出した


過剰な装飾が少ないといわれる正史本文でさえこれである。注釈に引かれている「江表伝」等ではさらにすさまじい暴虐振りが記されている。 (張布の娘姉妹を後宮に入れた逸話など)


また武昌遷都や顕明宮(昭明宮)建設により民衆に多大な負担を掛けている。孫皓は甘露元年(265年)9月、孫皓は西陵督・歩闡(歩隲の次男)の上表を受け建業から武昌に遷都。狙いは荊州防衛の強化、あるいは荊州からの北伐の意図があったものとされるが。しかし、これによって揚州の民衆は、貢納を長江のはるか上流の武昌にまで送らねばならず、負担が増え不満が高まった。結局、遷都は反乱と国内の疲弊を招いただけに終わり、その年12月に都は建業に戻された。


孫皓時代の呉には反乱や疫病が相次いだが、中でも天紀三年(279年)に発生した郭馬の反乱は孫皓が広州の戸籍を調査しなおして課税を強化しようとしたことに対する反乱であり、この郭馬の反乱は直後の晋侵攻とも相まって呉滅亡の重要要因となってしまうのである。


また、孫皓時代の元号は異様に多いのも特徴であり頻繁に瑞兆が報告され、そのつど改元が行われた。孫皓治世16年のうち、改元は8回。大赦は12回も行われており異常に多い。


皇族粛清

孫皓は皇帝に即位してから他の皇族たちを次々と粛清している。


元興元年(264年)9月、前皇帝孫休の皇后であった朱太后(朱拠と孫魯育の娘)は景皇后にされた。これは太后からの格下げを意味する。


甘露元年(265年)秋7月に孫皓は景皇后を迫害し、死においやった。

また、孫皓は孫休の4人の子を捕らえて呉の小城に閉じ込め、年長の2人を殺害した。

宝鼎元年(266年)冬10月、永安(白帝城の永安ではなく、現在の浙江省湖州市のあたり)の山賊の施但らが数千人の徒党を集めて反乱、孫皓の次弟である孫謙をかついで烏程まで進み、建業近郊の孫和の陵まで襲われた。鎮圧後、孫謙は母親や息子含めて殺された。

さらに孫和の嫡男(母が張妃)だった三弟・孫俊は聡明で評判高かったが、これも孫謙に連座させられ殺害された。


二宮の変で父・孫和と皇太子の位を争った孫覇の息子の孫基・孫壱は爵位剥奪の末、孫覇の生母・謝姫と共に会稽郡へ配流した。


建衡二年(270年)孫皓が寵愛していた王夫人が亡くなり、孫皓は哀しみのあまり数ヶ月間引きこもってしまい、人前に姿をあらわさなくなった。そのため「孫皓は実は死んでいて、孫奮(孫権の五男)と孫奉(孫策の長男・孫紹の子)のどちらかが即位する」という噂が流れた。孫皓は怒り、孫奮と五人の子を、また孫奉も殺害した。


同年。夏口都督・孫秀(孫堅の四男・孫匡の孫)は、孫皓を恐れて晋に亡命した。


天璽元年(276年)、京下督・孫楷(孫韶の長男)が晋に投降した。


孫秀が出奔し晋に亡命して以降、呉臣の晋亡命が相次いだが、この頃になると年に数人の割合で続々と晋に投降してくる呉将の記録が記されている。

二宮の変以来相次いだ政変につづいて、孫皓の粛清や出奔劇。こうして呉の皇族はほぼ根絶やしとなってしまった。

魏晋との戦い

孫皓と呉の最大の課題はやはり、同盟国蜀を併呑し、北、西、南と呉を三方から囲みこんだ超大国魏晋への対応であった。


孫皓の即位直後の264年(魏の咸熙元年、呉の元興元年)。魏の晋王・司馬昭は、呉に降伏を薦める書簡を送ってきた。

孫皓は返書で「皓、申し上げる」「私も晋王のように世道を正しく導いてゆきたいと願っております」とへりくだり、使者を洛陽に送った。

呉の使者は洛陽で魏帝に会ったのち、晋王・司馬昭に宴席に誘われた。その宴席で使者は二人の人物を紹介された。

「あちらが安楽公(劉禅)、あちらが匈奴の単于(呼廚泉)です」

巴蜀の地と匈奴を従え、魏皇帝をもしのぐ晋王司馬昭の権勢を、呉の使者たちは見せつけられた。


元興元年(264年)呂興の乱がきっかけで交州三郡は南中から攻めてきた元蜀将の霍弋(劉表劉備に仕えた霍峻の子)に占拠

宝鼎元年(266年)弋陽侵攻を群臣と図るが、陸凱の反対もあり沙汰止み

宝鼎三年(268年)孫皓は東関に親征し、施績(朱然の子)が江夏に詰める。万彧が襄陽、丁奉と諸葛靚(諸葛誕の子)は合肥に出兵。晋軍と激突するが、結局敗退

建衡二年(270年)丁奉が渦口に入るが、揚州刺史の牽弘(袁紹曹操に仕えた牽招の子)が撃退

建衡三年(271年)陶璜が交州を奪回

鳳凰元年(272年)歩闡が晋に寝返るが、陸抗が晋の楊肇らを撃破し歩闡を討ち西陵を奪回

鳳凰二年(273年)魯淑(魯粛の子)と薛瑩が西晋に出兵したが、弋陽の戦いで王渾に撃退

天紀元年(277年)夏、夏口の督の孫慎が江夏から汝南に軍を進め、焼討ちをかけて住民を略奪

279年(西晋の咸寧五年。呉の天紀三年)秋。呉滅亡の前年においても、晋の安東将軍王渾は「孫皓に北伐の動きあり」と洛陽に上表


建衡三年(271年)春正月晦、孫皓が多くの重臣たちと、母や妃妾まで引き連れて華裡(建業の西)にまで行幸するという謎の事件がおこる。


呉の国内では後述する「孫皓がまーた変なお告げに従ったのかよ」と噂されたが、晋の側では「孫皓は寿春侵攻を狙っているのでは」と判断され、司馬望司馬孚の長男)が増援に赴いている。

晋において、孫皓は北伐に積極的な君主と見られていることがわかる。


しかし結局、孫皓の北伐ははかばかしい結果をあげることは出来ず、国力を疲弊するだけであった。陸抗は「むやみな出兵は取りやめて、兵士民衆の力を養い相手の隙や短所を十分見定めた上で行動してください」と諫めた。


権臣処刑

皇族を粛清し続けた孫皓は、家臣をも次々と追放殺害してゆく。

孫休の腹心であった濮陽興と張布は、孫皓を即位させたことを後悔したが、それを万彧に讒言され、結局孫皓に誅殺された。

その万彧が留平や丁奉とともに孫晧を見限るような発言をしたと聞いた孫晧は丁奉が死んだ翌年、万彧と留平を毒殺しようとしたが死ななかった。しかし、この仕打ちに憤り二人とも憤死(または自殺)した。

孫皓の顔色を窺うことなく諫言してきた、誇り高く威厳ある気質の王蕃は、陳声らから度々讒言されており宴席のとき正殿の前庭で斬り殺された

清廉な人格者であった楼玄を、孫皓は交州に追放し、更に現地の武将に殺害を命じた。楼玄に敬意を抱いたその武将は命令を守らずにかばったが、やがてそのことを知った楼玄は自殺した。

「民が疲弊し反乱が頻発しているのは租税や徴用のため」と諫言した賀邵(賀斉の子)は免職され、後拷問を受け殺された


また、孫皓の粛清で特徴的なのは、自分で可愛がり取り立てた権臣たちをも処刑するところである

孫皓即位に尽力し、家隷からのし上り大抜擢されたため、多くの人から軽蔑されていた万彧

阿諛追従で上に巧みに取り入り、権力をかさに来て犬を献上させたり、 李勖を讒言し一家皆殺しに処したにもかかわらず列侯の爵位まで与えられた何定

讒言誣告を盛んに行うことで昇進し、孫皓から深い寵愛を受けた陳声と張俶

ずるがしこく立ち回り孫皓に取り入り九卿の位まで上り、土木工事を好み民衆を労役に借り出した岑昏


孫皓の寵臣として権勢を振るったこれらの家臣は、後にことごとく孫皓自身により失脚あるいは処刑された


しかし、これら佞臣と呼ばれる人物たちの事跡を見てみると

万彧:右丞相に上り詰め、巴丘の守備を任されるなど要職についており、かつ失策などは特に記されていない。また、良臣とされる楼玄を宮中に任用しするよう上奏したのも万彧である。

何定:孫皓の命を受けて夏口に兵五千を率い、孫秀を晋亡命まで追い込む。また、李勖を一家皆殺しにした讒言「交阯奪還のために出陣させた李勖が、部下を殺害して勝手に軍を帰還させた」は虚偽ではなく事実

陳声:孫皓から焼いた鋸で首を斬り落とされる発端となった民衆の財貨を強奪させた者を法に従って処刑したことについては(孫皓の寵を笠に来ていたにしても)司市中郎将の職務を果たしただけとも言えなくもない。

張俶:「誣告や讒言を受付け調査する部署の責任者」という、もっとも人から嫌われやすい役職についたこと。


など、一概に奸臣とばかりは言えない側面もある。低い家柄の人材を抜擢して重臣豪族に対峙しようとする皇帝孫皓と、反発する豪族層の板ばさみでつぶされた人々と捉えることもできる。


諫言した臣下の中には陸凱・陸抗・華覈らのように処罰されなかった者もいる。


華覈は、孫皓が臣下を殺害追放しようとするたびに反対し助命を嘆願した。その他諫言や推薦等、百通以上の上奏文を捧げた。最後には小さなことで譴責を受けて免職されたが、命は奪われなかった。


能讖緯説にのめり込む

「孫皓は占いやお告げにすがり国政を乱した」ということはよく知られているが、孫皓がのめりこんだ「占いやお告げ」とは讖緯説のことである。

讖緯説とは王莽光武帝が、そして近くは後漢末期の袁術劉備、はては漢の献帝から禅譲をうけた魏の曹丕が即位の論拠として利用した、未来を予言する儒教の学説。

孫皓はこの讖緯説を使い、呉王朝の正統化と皇帝権威の伸張を図った。


孫皓の讖緯でとりわけ有名なものが、天璽元年(276年)に建てられた天発神讖碑と、封禅の儀式である。


天璽元年、鄱陽から報告があった。

「歴陽山の石の筋目が字の形となった。それには

楚九州渚,呉九州都。揚州士,作天子。四世治,太平始

と書かれていた」

孫皓は「呉は九州の都となる。そして朕は大帝(孫権)から四代である。太平の主君とは即ち朕である」として

石に銘を刻んで碑をたてて祥瑞に報いた。これが天発神讖碑である。


また同年、呉興の陽羨山の岩の各所に瑞祥が表れている、と報告があった。そこで、記念として山名を「国山」と改称して封禅を行い、石碑を建てた。これが封禅国山碑である。


このようにして建てられた天発神讖碑は、掘り込まれている書体の異形さで名が知れている。

後世の評価も

「篆書体でもなく、隷書体でもない。極めてまれなもの」

「奇怪の書」

「牛鬼蛇神」

「関わりすぎると心身に異常をきたす」

「孫皓の異常な心理の発露」


等々結構ひどい言われようである。しかし、反面この書風を取り入れた徐三庚のような書家もいる。

このためか、能書家としても評されその分野では曹操に匹敵するという評もある。

ちなみに天発神讖碑は拓本が、封禅国山碑は石碑が現存しており、呉時代の貴重な遺物となっている。


陸凱・陸抗の奮闘

臣下たちの相次ぐ処刑、粛清、離反。その中で最後まで孫皓を諌め呉を支え続けたのが陸氏一門の陸凱と、陸遜の次男・陸抗であった。


陸凱は孫皓が即位してまもなく、右丞相万彧と並ぶ左丞相に任じられた。

陸凱の諫言は、主として以下の内容になる


北伐には反対。むやみな出兵は国力を損ねる

奸臣は遠ざけよ。何定のような小人は重用しないよう

民衆を休めよ。遷都や宮殿建造、北伐と重税で民衆は農業さえできず困窮している


孫皓の方針とは真逆であり、陸凱とは当然頻繁に衝突することとなる。


三国志「呉書」陸凱伝に「二十項目の上表文」という文章が載っている。

陸凱の諫言に対し孫皓は「あなたの諌めは根本から間違っているのだ」と真正面から否定。

それに対し陸凱は二十項目をあげて孫皓の政策を徹底的に批判し尽くすという内容で、陳寿も


「荊州や揚州の者からよくこの上表文のことを聞かされるので、いろいろ取材してみたが、実際に上表があったことを知る人はいない。

更に、もし孫皓が見たのならそのままに済ませるとは考えられないほどあまりに激烈な内容である。

文章は書いたが上奏はしなかったのか、あるいは死の直前に託したのか、真偽が分からないので本文には載せない。

しかし、孫皓の政策を明らかにして、後世の戒めとするに足るものと考え、本文の後に付載する」


と前置きした上で掲載したいわく尽きの文章である。

また、陳寿も記したように、孫皓の政策とその問題点がなんだったのか、が分かりやすくまとまっている文章になっている。


さらに陳寿は三国志「呉書」に事実は否かは保留した上で陸凱の孫皓廃立計画も記している。


二十項目の上表文と同じく、事実かどうか不明と前置きしながらの掲載は、過剰な装飾や、真偽の分からぬ風評は排するスタンスの陳寿としては極めて異例のことであり、陳寿が陸凱と孫皓、そして呉末期の政情に関して史家以上に同時代人として(正史三国志が校了したのは呉滅亡から十年と経たない時期)大いに関心を抱いている様が窺える。


建衡元年(269年)陸凱は死去。死の直前、孫皓は中書令の董朝を遣わし、申し述べたいことがないかたずねた。

「何定や奚煕は、国家の大事を委ねるに足らない」

「姚信、楼玄、賀邵、張悌、郭逴、薛瑩、滕脩、陸喜、陸抗は社稷の根幹となる人材。彼らに厚いご配慮を」

陸凱はこう答えた。


孫皓は以前から陸凱に不満を持っていたが、重臣である上に陸抗が健在である間は手が出せなかった。陸凱が亡くなった5年後に陸抗が病死。陸凱の家族を交州へ追放し報復した。


陸凱が亡くなった翌270年、陸抗は病死した大司馬・朱績(朱然の子)の守備を継ぎ、本拠を楽郷に置いて、信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の各軍を統括する任務に就いていた。

272年に歩闡が西陵城を手土産に晋へ寝返った時、陸抗はすぐに西陵城に急行。晋の名将羊祜らの援軍と対峙し、二転三転する攻防戦の末、遂に西陵を奪回し歩闡を斬った(西陵の戦い)。


その後陸抗は、晋の羊祜とは敵同士でありながら、互いに才能を認め合い篤い交わりを結んだ(羊陸之交)。


元より人一倍猜疑心の強い孫皓も、当然この状況を怪しむようになり、ついに陸抗を詰問した。しかし陸抗はそれ以上咎められることもなく、やがて昇進して大司馬荊州牧に任じられるが翌鳳凰三年(274年)に死去。死の直前まで国を憂いており、存亡の危機に立たされている呉の厳しい現実を訴えた。


かつての蜀の地、いまや対呉の前線基地となっていた益州では益州刺史王濬により呉討伐の大船団が建造されていた。

建平郡太守・吾彦は、長江上流から流れてくる木屑を見て、晋の軍船建造を知り、孫皓に増援を要請した。


吾彦の求めにも、陸抗の上疏にも、孫皓は何の対応も打たなかった。あるいは打てなかったのだろうか?


晋との最終決戦

279年(晋の咸寧五年、呉の天紀三年)の冬、晋は呉討伐の大動員をかけた。

鎮東将軍・都督徐州諸軍事 司馬伷:下邳から出撃し、涂中(建業対岸)へ進撃

安東将軍・都督揚州諸軍事 王渾:寿春から出撃し、長江南岸の牛渚へ進撃

建威将軍・予州刺史 王戎:項城から出撃し、武昌へ進撃

平南将軍胡奮:江夏から出撃し、夏口へ進撃

鎮南将軍・都督荊州諸軍事 杜預:襄陽から出撃し、江陵へ進撃

龍驤将軍・益州刺史・監梁益州諸軍事 王濬、広武将軍唐彬:成都から出撃し、水軍を率い長江を下る


更に全軍の統括として大都督賈充、 物資輸送を担当する度支尚書張華、

六路20万の軍勢が長江全域に展開し、呉に侵攻した。


寿春から出撃した王渾。かつての魏呉因縁の係争地合肥を横目に南下し、建業に迫った。孫皓は迎撃したが大敗。諸葛靚は敗退し、沈瑩、孫震や丞相張悌は戦死。建業近郊でのあっけない敗北を眼前にし、呉朝は恐慌状態に陥った。


かつての蜀の都、成都から出撃した王濬軍は、大船団を率い長江を進撃した。呉軍は晋の船団を防ぐために、長江に鎖をはり、また船底を破るため錐を水中に設置した。だがこれらも王濬・唐彬軍に突破された。

西陵。かつて夷陵と呼ばれた地。陸遜が劉備軍を撃破した呉の栄光の地。歩一門と陸抗が生涯をかけて守備した要枢の地。280年(晋の咸寧六年、呉の天紀四年)2月、西陵、夷道の城は次々に陥落し、陸抗の長男・陸晏と弟の陸景は戦死した。


襄陽から出撃した杜預軍。襄陽から江陵へ、72年前に曹操が劉備を追撃した長坂の戦いを想起させる経路で進撃して都督の孫歆を捕虜に。61年前に呉が関羽から奪った江陵を占領し江陵督・伍延を斬った。零陵・桂陽・衡陽などの荊州南郡は、相次いで晋に下った。


王濬・唐彬軍は長江を更に下り、烏林・赤壁の古戦場を通過し、夏口を攻略。ついで王戎と合流し武昌に攻め寄せる。孫権以来の呉の副都・武昌も陥落し、江夏太守劉朗と、武昌諸軍虞昺は降伏した。

郭馬の乱鎮定に向かっていた陶濬は晋侵攻を聞き、武昌に戻っていたが、このときの状況を孫皓に上奏した。

「武昌より西では、もう守りに当ろうとする者もない。守りに当らぬのは、軍糧が足らぬからでも、城が堅固でないからでもない。兵士も武将も戦いを放棄してしまったからだ」


かくて、いまだ建平に篭城中の吾彦を除く、巴蜀から建業へいたる長江全域が晋の支配するところとなった。



「王濬・唐彬が行くところ、呉軍は土崩瓦解、防ぎとめようとするものは誰もいなかった」

(三国志「呉書」三嗣主伝)


晋に降伏する

孫皓は、游擊將軍の張象を水軍1万で出撃させるが、張象は晋軍の旗を見るや降伏した。

3月。陶濬は建業に帰還し孫皓に進言した。

「蜀の船はみな小型でございますゆえ、もし二万の兵をお預かりすることができ、大船に乗って戦えば、十分に打ち破ることができます」

孫皓は兵を与え、翌日には出撃することになったが、兵卒達はその夜のうちにみな逃亡してしまった。

かつて曹操を打ち破り、幾度となく襲来する魏の侵攻を跳ねのけ続けた呉水軍はこうして消滅した。


この時、孫皓は母何氏の弟・何植にこのような書簡を送っている。

「陶濬からの上表がありました…

兵士たちが戦いを放棄したからといって、どうして兵士たちを恨めましょう。

…天が呉を滅ぼすのではありません。これは私が自ら招いたことなのです。

死んで土中に葬られたとき、なんの面目があって四人の先帝さまと顔をあわせることができましょう」

(三国志「呉書」三嗣主伝注「江表伝」)


かつて「天が我を滅ぼすのだ」と言った楚の項羽とは非常に対照的である。


王濬・司馬伷・王渾らが建業近辺に集結し総攻撃が迫る中、孫皓は薛瑩、胡沖の言を受け入れ降伏を決断。晋の各将軍に投降書簡を送った。


3月15日、 建業に侵攻した王濬に対して、孫皓は降伏した。孫権即位以来51年。時に孫皓39歳。


「国が滅んだ罪は己自身にある。家臣たちは晋で能力を生かすように(意訳)」と言っており棺を用意し死を覚悟していた孫皓だったが、助命され洛陽へ護送される。その後、司馬炎から帰命侯に封じられた。

その4年後の 太康五年(284年)12月、孫皓は洛陽にて43歳で死去した。


孫和への大変な敬愛ぶり

孫皓は位につくと、その年の内に父・孫和に文皇帝という諡号を与えた。そして陵を改葬し、墓守のために200家以上の園邑を作り、墓を守る役職を設け、任に当たらせた。さらに新しい郡を作り、その郡に季節ごとに陵の祭礼を行うよう命じた。

これだけでも篤い祭礼であるが、さらに建業に孫和の廟を立てた。

廟に孫和の霊を迎えたとき、 巫覡の「孫和様の霊は衣服も顔色も生きているときのままとお見受けします」との報告を聞いた孫皓は感涙にむせび泣き、七日のうちに三度の祭を行い、昼夜の別なく歌舞を演じさせた。さらに、生母の何氏の位を上げて太后とした。


また、呉の著名な史家・学者であり、孫皓が寵愛していた韋昭(韋曜)は、史書で孫和の本紀をたてるよう命じられたのを拒否したことが原因で処刑された。史書で本紀とは皇帝の記録のことであり、「皇帝に即位していない孫和を皇帝として扱うことはできない」という姿勢が孫皓の逆鱗に触れてしまったのである。孫皓の一連の姿勢からは、父孫和こそが正統な皇統であるとの強烈な思いも見える。


一説には孫皓が暴政に走ったのは、父の孫和が一度は皇太子として立てられながらも二宮の変を経て理不尽に廃立され、無残な最期を遂げてしまったことが原因であるとも言われている。


評価

かの紂王とかに例えられたりすることもある孫皓。当然ながら歴史書などでの評は手厳しい。

  • 『三国志』の著者・陳寿は二宮事件が呉の滅亡の遠因になったと評しているものの、孫皓を助命した司馬炎の対応も批判し降伏を受け入れず孫皓を腰斬に処し天下万民に詫びるべきだったと延べた。
  • 三国志に注を付けた裴松之はさらに辛辣で二宮事件が起こらなかったとしても孫皓が帝位に就くのだから呉は滅亡していると評した。
  • 陸抗の四男・陸機は『弁亡論』で孫皓の失政を手厳しく批判した。

暴虐の逸話には、亡国の君主ゆえの誇張もありそうだが、事実無根というわけでもないだろう。


だがこの孫皓、同じ暴君でも董卓とかと違い「無垢な病んだ暴君」という奇妙な印象を受ける人物でもある。


呉に最後まで忠義を尽くした吾彦からは英明だったと弁明されたが、それは司馬炎や賈充らとの機知に富むやり取りにも見受けられる。更には書に石碑に仏教にと様々な逸話を残している多芸な人物だったりする。もし父・孫和が廃嫡されることなく、順当に世継ぎとなれるような健全な環境であったなら、孫晧のこれほどまでに人の心を信じられない、病的な性格が形成されることはなかったのではないか。呉が滅亡しなかったかどうかはともかく、暴君と呼ばれるような存在にはならなかったのではないか、という声も見受けられる。


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