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グループCの編集履歴

2022-02-14 22:12:00 バージョン

グループC

ぐるーぷしー

1982年にFIAが規定したレースカテゴリーの一つ。スポーツプロトタイプカーとも。 または、ジョジョASBリーグで作られたグループの一つ。

概要

8つの数字によって区分分けされていたレースカテゴリを簡略化するために、FISA(国際自動車スポーツ連盟)が1981年に発布し1982年に導入された「グループ・アルファベット」カテゴリの内の一つである。直接の前身はシルエットフォーミュラの「グループ5」とスポーツプロトの「グループ6」である。


レギュレーションに「使用可能燃料量」が指定されているのが最大の特徴である。

オイルショック」に起因する、石油資源への向き合い方として定められたこのレギュレーションは、当時はもちろん、今日におけるレースシーンにおいても、ドライビングマネジメントの観点において極めて優秀な規定といえる。

オイルショックから明けたメーカーやレーシングコンストラクターたちは、この規定の下に集い、様々なマシンを開発して争った。

今でも熱狂的なファンを持つ、古き良き時代の記憶である。


グループCの主なレギュレーション

グループCは車格や規則の違いでクラスが分かれており、年にもよるがC1~C4まで存在した。本記事では特に注意書きが無い限り、C1について述べる。

下記の表もC1についてのものである。

全長   4,800mm以下   
全幅   2,000mm以下   
最大高 1,000〜1,100mm
最低重量800kg以上     
ドア数  2枚          

この他、コクピット底面に1,000mm×800mmのフラットボトムを設置する、フロントとリアのオーバーハングの合計がホイールベースの80%、差が15%を超えてはならないなどがある。

燃費とこれらの寸法、ドライバーの安全と快適性などに規定がある以外は「あとは自由」とも言える非常に柔軟なレギュレーションであった。

ロータリーエンジンが積極的に活動できたのも、この柔軟さに一端している。

利用可能燃料量

以下の数値はC1カテゴリのものであり、カッコ内は85年からの数値である。

500km〜323L(275L)
500mile(805km)〜494L(420L)
1,000km〜600L(510L)
24時間レース〜2,550L

最初は1981年ル・マン24時間を制したポルシェ・936/81の燃費1.8km/Lが基準とされていた。


グループC規定が採用された主なレース

ル・マン24時間耐久レース

・世界耐久選手権(WEC)→世界スポーツプロトタイプカー耐久選手権(WSPC)

 →スポーツカー世界選手権(SWC)

・全日本耐久選手権→全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)

・デイトナ24時間耐久レース

・セブリング12時間耐久レース

・IMSA-GTP

・ドイツレーシングカー選手権(DRM)

歴史

発足と隆盛

1970年代に発生したオイルショックの中で、レースにおける「燃料」は格好の批判の的となった。この世界情勢を受け、レギュレーションに「燃費」を盛り込むことでメーカーがレースを行う土台を整えていく。

1982年にFISAによって規定が定められ、グループCは一歩を踏み出した。

ニューマン・ポルシェ956

最初の戦いは、ポルシェとランチアによる一騎打ちであった。ランチアは移行期間で1年だけ参戦できた旧グループ6の最大のメリット「燃料が使い放題」「重量が200kg軽い」ということを最大限に活かしたLC1で、ポルシェを苦しめた。翌年には本格的なグループCであるLC2も投入し、予選でポルシェを圧倒した。

しかしいずれも決勝では信頼性不足で結果を残せず、グループ6から続くポルシェの連覇を止められずに終わった。


ポルシェはアルミニウムシャシーにグランド・エフェクトカー構造を掛け合わせた名機・956とその進化版である962Cで各レースを制圧。

世界耐久選手権(WEC)では82年から86年、ル・マン24時間レースにおいては82年から85年、全日本耐久選手権(後のJSPC)においては83年から89年と、数多くのチャンピオンを獲得した。またグループCと互換性を持つ北米耐久のIMSA-GTP規定でも活躍し、1980年代前半を支配し続けた。

ポルシェは他メーカー勢とは異なり、ワークスチームよりもヨーストやクレマーといった多数の有力プライベーターに供給し運用させることで成功を収めた。対抗できるワークスがほとんどいなかったこともあるが、そうした事情でこの頃のポルシェ勢はいつも10台以上がエントリーし、1-2-3フィニッシュもザラであった。

当時ポルシェはF1でもエンジン供給を行ってチャンピオンを獲得しており、まさにポルシェの時代であった。

Silk Cut Jaguar XJR-14ザウバー・メルセデスC9

1985年以降ジャガーザウバー/メルセデスアストンマーチントヨタマツダ日産といった各メーカーが「打倒ポルシェ」を掲げて多数のモンスターマシンを繰り出して鎬を削ることとなるが、実際にポルシェに勝てるようになるのは1988年のTWR/ジャガー・XJR-9や日産・GTP-XTを待たねばならなかった。

1988年にポルシェはCART(現インディカー)にもエンジンサプライヤーとして再参入するが、この頃になるとポルシェがグループCに割く予算は少なくなり、962Cは相対的に戦闘力を失っていった。


またポルシェに追いつけ追い越せでマシンの高性能化が進み、予選用エンジンで1200馬力(当時の機器では計測不能であったため、あくまで推測値)、最高速度は400km/hに達するという凄まじいものになっていた。


移行期間と消滅

燃料流量規制ゆえに熱を帯びていたグループCだが、1988年頃から燃費を気にしながらレースをするのは興行的につまらない、という声も出始めていた。折しも当時TV放送を通じて大衆人気を獲得していたF1に倣おうと考えたFISAは、1989年にF1と同じ燃料使い放題・ターボ禁止・最大排気量3.5L、スプリントレースの導入という規則の導入を発表した。これにはグループCのメーカーがF1にもエンジン供給をするようにするという目論見もあった。


しかしこの規則はこれまで参戦していたメーカーにとっては、長年積み重ねてきた低燃費エンジンへの知見を強制的にリセットさせられてしまうものであったため、開発が遅れて参戦できない、あるいは開発コストが追いつかなくてそもそも参戦を諦めてしまうメーカーが多数発生した。特に手厚いサポートでプライベーターの味方であったポルシェが、おりからの戦闘力低下に加えて「旧規定だから」という理由で大きなハンデを背負わされていたことは、エントリー台数に大きな打撃を与えた。

また1990年にユノディエールの6kmのストレートに2つのシケインが設けられたことも、マシンの設計思想を大きく変えてしまったと言われている。

こうした事態に直面したFISAは旧規定マシンの参戦をいったん1991年までしぶしぶ認めた。この混乱の最中、91年のル・マンを日本車として初めて制覇したオレカ/マツダの787Bの総合優勝は今も語り継がれる快挙となっている。

マツダ787B最近の落描き(2021/3/22〜

また「ル・マンに参戦するにはSWCにフル参戦しなければならない」という新しい規則も、ハードルが高くなってしまっていた原因となっていた。

メルセデスは開発の失敗、ジャガーはスポンサーに逃げられていずれも1991年を持って撤退。結局、新規則に本腰を入れて参戦できたのはプジョートヨタだけであった。

そんな状態なので、新GT1規定までの繋ぎの94年まで旧グループC規定車両の適用(93年まではC2クラス、94年はLMP1/C90クラスとして)がダラダラと続くことになる。


こうして百花繚乱のグループCは、最後は寂しい形で13年で幕を下ろした。


日本メーカーにとっての「グループC」


1982年WEC(世界耐久選手権)日本ラウンドでロスマンズ・ポルシェの956がもたらしたグループCの衝撃は瞬く間に国内メーカーを奮い立たせることになる。この年「正式な国産グループCカー」は童夢トムスが共同開発したセリカターボのみであった。

全日本耐久選手権(1986年にJSPC、全日本スポーツプロト選手権へ改称)が誕生した83年からは多くのワークス・プライベーターがグループCへ出走することとなるが、時を同じくして日本で隆盛を迎えていた「富士グランチャンピオンレース(通称グラチャン・GC)」のマシンを流用するチームも多くいた。しかし本命はやはり956であった。

当時の956の価格は6,500万円ほどとされるが、ポルシェ側の手厚いサポートもあり、マシン開発に四苦八苦するワークスをよそ目に、強力な戦闘力を持ってプライベーターがレースを行っていた。特に「ノバ・エンジニアリング」は1983年にワークス・ポルシェが来日したレース以外は全勝という圧倒的な強さを見せつけた。

なお同年のル・マンにはマツダが「Cジュニア」(のちのC2)の717で参戦し、日本車初となるクラス優勝を達成している。


トヨタ・日産・マツダは「打倒ポルシェ」と「ル・マン優勝」を目標に、マシン開発をすすめ猛烈な進化を見せていき、84年になると(全日本選手権ではないが)富士1000kmレースで、ムーンクラフトのMCS・グッピーが国産マシンとして初勝利。

翌85年には童夢84C・トヨタが初めて全日本耐久選手権で優勝し、同年9月にはWEC富士で星野一義率いるマーチ85G・日産が国際ラウンドで日本勢として初優勝を上げている。

しかしシーズンを通してでは、やはり956が総合勝利を重ねていた。

センシティブな作品

結局ポルシェが衰退する1989年まで、国内で行われたグループCのレースにおいて国内メーカーが年間チャンピオンとなることはなかった。

1990年に入るとかつてのポルシェの面影はなく、この年日産・R90CPがようやくタイトルを掴んだ。ここまで来ると各メーカーはすでに(衰退したとはいえ)「打倒ポルシェ」を大きく達成しており、国産グループCも熟成して最盛期を迎えていた。


1991年には先述の通りマツダ・787Bがル・マン24時間レース総合優勝を果たし、20年の挑戦の悲願を達成する。国産車がル・マンで優勝したという事実はモータースポーツの歴史にその名を残し、また孤高のロータリーエンジンの快挙は世界を沸かせた。

また日産は旧規定車両をIMSA-GTPに適合させたR92CPによって92年のデイトナ24時間を実質日本人トリオで制覇するという、こちらも快挙を達成した。

TOYOTA TS010

しかし新規則下では、マツダは大排気量レーシングレシプロエンジンのノウハウの蓄積が無かったため、ジャッド製V10エンジンと旧グループCのジャガー製シャシーをTWRから購入しただけの「MXR-01」で対応せざるを得なかった。92年を持ってバブル崩壊の余波を受け止めきれなかった本社の経営不振により、マツダスピードもこの分野から撤退し、以降マツダはル・マンに戻ることはなかった。

日産もV10エンジンを搭載したNP35を開発するが、JSPCに一度参戦した後は経営不振により参戦を断念した。

トムス/トヨタはTS010を開発してプジョーと大舞台で競り合い、1991年SWC(スポーツカー世界選手権)モンツァ戦で世界選手権初優勝を飾るが、これ以外は大きな戦果を挙げることはできなかった。


シグマ/トヨタはこうした中でも積極的に旧規定マシンで参戦し、94年には「94C-V」で総合2位(LMP1/C90クラス1位)を獲得している。この94C-Vは優勝できなかったにも関わらず、トラブルからの鬼神の如き追い上げが現地でも大きな印象を与えたとして、今もル・マンの博物館に787BやTS050とともに並んでいる。


92年末にはバブル崩壊も直撃して参戦台数が10台前後に低迷したJSPCは消滅し、国内メーカーもグループC活動に終止符を打った。


その後

チーム・タイサンの962Cが1994年のJGTC(現在のSUPER_GT)にも参戦している。アンソニー・レイド/近藤真彦組がGT1クラスで優勝を挙げているが、規則で多くのハンデを背負っていたため、この年限りの参戦となった。


NISMOTRD、マツダスピード、トムス、SARD(シグマ)、タイサンと言った有名チューナー・プライベーターはこのグループCの渦の中で産声を上げ、実戦を戦いぬき、その後のレース活動の地盤を作り上げた。


マシンの特徴

ポルシェの956と962Cはプライベーターに供給されるだけあって極めて扱いやすい特性であった。どれくらい扱いやすいかというと、1982年ル・マン総合優勝者のルドウィックとペスカロロが「ほとんど疲れていない」と口を揃えて言うほどであった。


また荒聖治は2015年に箱根ターンパイクで962Cをドライブしているが、「俺は初めて体感したけど…この車は…超いいな!」「このしなやかなサスペンションと、このダウンフォースはハンパじゃないぞ」とただ感心しきりであった。荒は2004年ル・マンで総合優勝の実績を含めLMP1車両の経験が豊富なドライバーであるが、彼をしてこの言わしめようには説得力しかないだろう。



その圧倒的な戦果とは裏腹に反面長距離耐久レースを戦うために各種快適装備も備えられ、ドライバーフレンドリーな956/962Cはまさに「スポーツカーの究極体」であったといえる。


ただし燃費規定後期のモンスターマシン達はさすがにそうもいかなかったようで、ザウバー・メルセデスのC9はドライバーたちがマシンから降りるたびにマッサージを受けていたとか、R92CPは星野一義・長谷見昌弘が「マシンから降りるたび死ななくて良かったと顔を合わせた」「もう二度と乗りたくない」とまで言ったというエピソードも残っている。


参考・出展

・WikipediaグループC

・三栄書房 Racing on Archives Vol.8「ニッポンのグループC」(2014/2/12発行)

ジョジョの奇妙な冒険オールスターバトルにおいて

2013年6月19日、ジョジョの奇妙な冒険オールスターバトル(以下ASB)公式サイトにおける企画、

オールスターバトルリーグ」内にて3番目に誕生したグループである。

しかし、その後誕生した通称アイドルグループグループDと通称死のグループグループFのインパクトの影に隠れてしまった。


構成メンバー


岸辺露伴

4部ダイヤモンドは砕けないの人気漫画家


ウィル・A・ツェペリ

1部ファントムブラッドで主人公のジョナサンに波紋法を教えた。


ワムウ

2部戦闘潮流で主人公のジョセフを苦しめた柱の男の一人


吉良吉影

4部ダイヤモンドは砕けないのラスボス。唯一のダウンロードキャラクター。


吉良吉影は静かに暮らす気がない

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