※馬齢は2000年までの旧表記で記載。
生涯
父トウショウボーイ、母サクラセダン、母の父セダン。
半兄は1988年の日本ダービー優勝馬サクラチヨノオー(父マルゼンスキー)。
馬名は兄チヨノオーが第58代横綱千代の富士貢に由来していることに因んで、千代の富士の弟弟子である第61代横綱北勝海信芳から付けられた。
3歳(1988年)
1988年10月8日の新馬戦で小島太を背にデビュー戦勝利を挙げると、続く府中3歳ステークス(当時OP。現GⅡ東京スポーツ杯2歳ステークス)もレコードを立てての快勝。
そして、朝日杯3歳ステークスは単勝1.3倍の1番人気に応えてGⅠ勝利。
兄のチヨノオーも前年に勝っていたため、朝日杯兄弟制覇を達成すると共に、最優秀3歳牡馬を受賞した。
4歳(1989年)
兄のチヨノオーに続くダービー兄弟制覇を夢見て、クラシックイヤー初戦は弥生賞(GⅡ)。
しかしここから、ホクトオーの歯車は狂い始める。
雨で重馬場となった弥生賞は単勝1.4倍を大きく裏切る12着と惨敗。勝者となったのは道悪巧馬レインボーアンバーだった。
本番の皐月賞はまたしても雨で重馬場となり、加えて単枠指定大内枠1番という皐月賞では圧倒的に不利とされる馬番の二重苦で20頭立ての19着。1頭競走中止のため実質最下位。またも1番人気に推されての惨敗。優勝はドクタースパート。
そして5番人気で迎えた日本ダービーは内側にササって9着に終わり、チヨノオーとのダービー兄弟制覇は夢と消えた。優勝はウィナーズサークル。
秋の初戦は菊花賞トライアルのセントライト記念(GⅡ)で、朝日杯以来の勝利を挙げたが、本番の菊花賞は馬場の切れ目に驚いたためか大外をぶん回し、5着に終わった。優勝はバンブービギン。
5歳(1990年)
古馬になったホクトオーはアメリカジョッキークラブカップ(GⅡ)を勝利するものの、続く産経大阪杯はスーパークリークの7着。
天皇賞(春)もいいところなくスーパークリークの14着に惨敗し、ここから1年間長期休養に入る。
6歳(1991年)
京王杯スプリングカップ(GⅡ)で1年ぶりに復帰するも、ダイイチルビーの9着に惨敗。
そして安田記念(この時のみ木藤隆行騎乗)はダイイチルビーの15着(16頭立て)に終わり、これを最後に引退した。
引退後
引退後は種牡馬となり、初年度産駒からサクラスピードオーが1996年の京成杯(GⅢ)と共同通信杯(GⅢ)を勝利した。
2000年3月16日に15歳(現14歳)で死去。